自分の足りなさを認めて神様にすがりつくこと

二心を捨てるには」でも触れましたが、二心を持たないということは、ただ単に物質や富や異性や名誉などを求める欲を捨てるということだけではありません。

自分のプライドを保つこと、自分自身を最優先にすること、自分の考えを押し通すことなども二心となりますので、これらのものも捨てていかなくてはなりません。

つまり、固定観念という自分が持っている古い考えを捨てていき、その代わりに神様の考えを自分の頭の中に入れていくことで、新たな自分に作り替えていくのです。

「新たな自分に作り替える」と言葉にすると簡単なことのように思えてしまいますが、実際にやってみるとなかなかうまくいきません。

信仰生活を始めたばかりの頃は自分の希望を神様にお願いするような二心全開の祈りをしていたため、変化など全くと言っていいほど感じられませんでした。

しかし、RAPTブログの有料記事を購読し始め、二心を捨てられるように、この世のもの(富や異性や名誉)を求めない生活に変えていき、祈りの内容も自分以外の人や世の中のために祈るように変えたところ、次第に「聖霊?」を感じられるようになっていきました。

まだ疑問符が付いているのは、頭や手の平などが何かピリピリとして体の表面が温かくなったような感覚でしか感じられなかったからです。

自分が何か温かい空気で包まれた感じの時もあり、体の表面に非常に微弱な電気が流れているような感じの時もある、といった具合です。

「これが聖霊なのかな?」と自分では半信半疑で、喜びを感じる半面、まだまだ「これが聖霊だ」と確信を持てないほど貧弱な信仰でした。

まだまだ捨てるべきものを捨てられていなかったので、それほど強力に聖霊を受け取ることができていなかったのです。

自分のプライドが邪魔をして、神様よりも自分の考えを優先してしまったり、自分が完璧な人間ではないにもかかわらず神様に真剣に祈り求めていなかったからです。

このように信仰者としてまだまだ未熟であった私ですが、以下の有料記事によって以前とは全く異なるかたちで聖霊を感じられるようになりました。

私の信仰生活における転機ともなったこの御言葉を、初心に戻り改めて見直し、より深い悟りを得られるようにまとめてみたいと思います。

自分の足りなさを認める

人はプライドがあると自分が持っているもの(才能・富・地位)に慢心してしまい、自分に足りない部分があることに気付くことができません。

また、現実社会でそれなりに生活できていると、自分が足りないことが分かっていても、これ以上自分を成長させる必要がないと思い、成長する努力を怠ってしまいます。

信仰的な観点で見ると、自分の足りなさは理解しているつもりなのに、「何故この御言葉に聞き従わなければいけないのか」ということを悟れていないということになります。

信仰を持つ理由を理解できていなければ、「足りなくて何が悪いのか!」「この世の中で生活できているからそれでいいではないか!」という高慢な考えに陥り、次第に適当な信仰生活を送るようになってしまいます。

このようにプライドがあると「御言葉通りに生きなくて何が悪いのか」という高慢な考えになり、自分の足りなさを認めることができなくなるばかりか、ずるずると自分の生活に溺れ堕落していくことになり、やがて信仰も破綻していくことになります。

「今まで神様に頼らなくても生きてきた」という思いが少しでもあると、「わざわざ神様を信じる必要なんてない」と神様のことを軽んじ、信仰を持つ前の自己中心的な生活に逆戻りしてしまうわけです。

また、自分が足りないことを認めないということは、偽りの自分という虚像を背負い虚勢を張って生きている状態なので、いつまで経っても楽に生きられません。

そのままやせ我慢していると見せかけの自分という虚像はどんどん大きくなり、その虚像の重みに耐えられずに自分自身が圧し潰されてしまうことになります。

見栄を張って「できない自分」をできるように見せかけても実際の自分ができるようになるわけでもなく、できるようになる努力を重ねなければ、相変わらずできないままです。

自分ができるように偽ることで人の目は騙せても、神様は自分以上にその人のことを知り尽くしておられるのですから、何の役にも立たないプライドなどさっさと捨てしまった方がいいのです。

そして、できない自分・足りない自分を素直に認め、その不足分を補えるように神様に祈り求めていくことで神様からの愛(聖霊)も感じられるようになり、心から不安や心配がなくなっていきます。

このように自分が足りないことを認め、嘘と偽りで塗り固めた自分の着ぐるみを脱ぎを捨てることで、心が軽くなり人生が楽になっていきます。

とは言え、自分が足りないということを認めることは、あまりにも足りない自分をまざまざと思い知ることになり、そのような足りない自分が惨めに思えてくるため、自分の足りなさを認めることがつらくなります。

また、自分が傷つくことを恐れる人は自分の惨めさに耐えることができなくなり、自分の足りなさを認められなくなります。

しかし、自分の惨めさを知ってプライドを捨てた人は幸せだとイエス様は仰っています。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

マタイによる福音書 5章 3節

「こころの貧しい人たち」言い換えれば、自分の惨めさを悟りプライドを捨てた人は、自分の足りなさを補うために自分を成長させようと必死に神様に祈り求めることができるのです。

人間の能力など神様と比べればとても小さなもので、どんな諺や形容詞を用いても収まり切らないほど大きな差があります。

これだけ強大な御力を有しておられる神様が人類を愛してくださり、人類が神様を愛することを望んでおられるのです。

神様が人間を愛され、人間も神様を愛する。

つまり、神様と人間が愛し合える関係になることを神様は望んでおられます。

愛し合うということは、お互いが対等な関係でなければ成立せず、考え方や価値観が合わなければいずれその愛は破綻してしまいます。

どちらかが一方的に愛しても、愛し合うという関係にはならないからです。

だから神様は、人間に神様の御心や心情を理解できる次元にまで成長してほしいと求めておられるのです。

人類は生まれた時から既に神様から多くのものを与えられ、神様からの愛を受けて生きています。

神様を信じていなければ、「私は何も貰っていない」と高慢な考えに陥りそうですが、実際には私たちが生活していける環境を用意してくださったのも神様です。

地球一つを見ても神様の計画が人間ではとてもできない壮大さと緻密さによって成り立っていることが分かります。

地球は大雑把に分けて空気と水と大地で成り立っています。

そして人間は、水と空気に含まれる酸素がなくなると生きてはいけず、特に酸素を体内に取り込めなくなると数分から数十分で死亡してしまいます。

また、大地(陸地)は人類が生活をする場でもあり、植物が根を張り大きく成長する養分を与えてくれます。

この植物も食物になる他にも、人間の生命維持にとって何よりも重要な酸素を光合成によって生成してくれます。

人間が呼吸で酸素を取り込み二酸化炭素を排出する一方で、植物が光合成で二酸化炭素を取り込み酸素を排出するという循環の仕組みを神様が作られたこそ、100年前から人口が約4倍に増えた現在でも酸素不足に陥らず生存していけるのです。

このように当然のように感じていることですら、これを人間が実現しようとしても、人間の知能ではここまで壮大な計画を破綻することなく綿密に練り上げることは不可能です。

また、自分の才能や個性や感情も神様が与えてくださったので、ロボットのように画一的な個体ではなく、他の誰とも違う特徴のある能力や個性を持った個人として存在し、良くも悪くも人間らしく生きているわけです。

自分の力で身に着けたように感じる能力も、神様が与えてくださった肉体にその能力に適した才能を備えておいてくださったからできたことです。

才能がなければいくら努力したところで自分のものになりませんし、神様がその人に適したことに興味を持たせ才能を伸ばすように働きかけたため、その人の能力とすることができたわけです。

このように人は自分では気づいていなくても、多くのものを神様から与えられているのです。

これだけのものを神様から与えられていながら人が神様の愛を感じられないのは、その人が神様を知らずに自分の考えで生きているため、その人と神様の考えとが遠くかけ離れており、神様の愛を感じられなくなってしまっているからです。

テレビやラジオも周波数を合わせないと受信できないように、神様の愛も人間が聖霊を感じられるように祈りでチューニングを合わせないと受け取ることができないのです。

また、チューニングを合わせてもアンテナが錆び付いていたら受信障害が起こるように、人間に罪があると神様からの聖霊を受けられません。(実際のアンテナには錆で受信障害が起きないよう、錆びにくい素材が使われています。)

そこで自分の罪を悔い改めて受信障害の原因となっている錆を取り除いていき、よりクリアな状態で神様の愛を感じられるようにしていくのです。

このように神様の愛を感じ神様の愛に人間が応えるためには、人間がどこまでも罪をなくして清くなり、神様の御心や心情を理解できる、神様が求められるレベルにまで成長していかなければなりません。

全てを創造された全知全能の神様が人間の低いレベルまで下げることはできないからです。

実際に神様と人間とでは大人と赤ちゃんくらいの違いがあるため、聖書にある神様の掟や御言葉を実践することは、人間の考えのままではとても厳しく感じてしまいます。

神様が人類に「神様に近付いてほしい」「神様と一体となってほしい」と求めておられる言葉なのですから、その要求は人間レベルの考えではどこまでも高い要求になるのも当然です。

そのため、サタンが作り出したこの世の価値観の中で生きてきた人が、信仰を持ったからといっていきなり全て実践できるわけがありません。

前述のように神様と人間との差はとても大きなものなのですから、一朝一夕で人間が神様が望まれるレベルにまで成長することは不可能なのです。

神様と人間ではとても大きな差があるのですから、人が神様の前で自分が「できている・足りている」と考えることは高慢以外の何物でもなく、そのような考えの人は成長することを止めてしまうと同時に、神様に祈り求めることも止めてしまいます。

そして、祈り求めない人には神様は何も与えてはくださいません。

また、信仰生活を始めて間もない人や適当な信仰生活を送っている人が御言葉を実践できないといって落ち込むことも、実はプライドが関係しています。

できないと思って落ち込むことは一見するとプライドが低いように感じますが、神様の偉大さや神様が求めておられる要求の高さを理解できたいないため、「できるはず」と思い上がっている自分が実際にはできないから落ち込むのです。

「自分は神様の前ではどこまでも小さい者」と自分の足りなさを認めていれば、できないことにいちいち落ち込み時間を無駄に浪費するのではなく、できない自分ができるようになることを神様に祈り求めることができるのです。

このように神様に祈り求めずに自分の力だけで行おうとすることは、神様のことを大したことないと見下しているわけですから、このような考えで形式的に信仰生活を送ったところで神様は何も与えてはくださいません。

そのようなことにならないためにも、御言葉を聞いて自分が足りないことに気付き、その足りない部分の御言葉を実践し、自分を成長させていかなければならないのです。

そうするためには、常に自分が足りないことを認め、どこまでも子供のように従順に神様に祈り求めなければなりません。

もしも、自分が足りていると思ってしまったら、その時点で神様に祈り求めなくなるので、神様から何も与えてもらえなくなるからです。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

マタイによる福音書 7章 7~11節

神様は人類を愛してくださり、私たちが求めれば与えてくださるのですから、常に自分が足りないと認めて祈り求めることが大事なのです。

どこまでも神様と自分の差が大きく、自分が足りていないこと自分の存在の小ささを認め、神様に近付くために祈り求めることで、神様も私たちに祝福を与えてくださるのです。

神様にすがりつくこと

「すがりつく」というと、幼い子供が親に泣いてすがりついたり、恋人にすがりつく場面を連想するように、力や立場が弱い者が力のある者や大きなものに頼ることを意味します。

しかし、子供も小学生にもなれば親にすがりつくこともなくなり、一人の個人として成長していき、大人になれば自分のことは自分一人でできるようになります。

また、恋人にすがりつく人は自尊心が低く相手への依存心が強いため、相手に受け止められる度量があればいいですが、なければ相手への負担になり、嫌われてしまうことにもなりかねません。

そのため、過去に相手に依存しすぎて嫌われた経験がある人は、相手に遠慮したり、相手から嫌われることを恐れ、依存したくても相手にすがりつくことができなくなります。

プライドを捨てることが人生の成功につながる」でも触れましたが、これらの「自分の力でできる=自立」「誰かに頼る=依存」「嫌われたくない」という考えは自尊心が影響しています。

自立した人は自分のことは自分でできるため誰かにすがりつかなくなり、依存体質の人も相手のことを考えたり自分が嫌われることを恐れると誰かにすがりつくことができなくなります。

このように、人が成長し様々な能力や思慮分別を身に着けていくことで、誰かにすがりつくということをしなくなっていきます。

しかし、神様は私たち人類に、「どこまでも神様にすがりつきなさい」と仰います。

人間相手だと相手から嫌われたりすることを恐れたり、頼ってもできないことが多いため、完全に依存することを躊躇したり、遠慮して頼りたくても頼れないことの方が多いものです。

しかし、神様は全知全能でありできないことは何もないので、神様にすがりついた分だけその人は神様から与えてもらえます。

そこであなたは「実体のない神様にどうやってすがりつけばいいの?」と思われるかもしれませんが、この「神様にすがりつく」ということは、先述した「神様に祈り求める」ということに加え、神様の偉大さと自分の小ささを知ることです。

人が神様にすがりつくためには、神様の偉大さを知り、自分が神様の前でどれほど小さな存在であり、神様の御力に比べ自分の能力がどれだけ「できない・足りない」かを認めなければなりません。

自分が「できる・足りている」と驕り高ぶっていると、その人は神様にすがりつこうとはせず本気で神様に祈り求めることをしないため、神様はこんな高慢な人のことをかわいいとは思われず何も与えてはくださいません。

先述の「求めれば与えられる」という聖句にあるように、心から求めれば神様は与えてくださいますが、形式的に嫌々求める者や求めようとしない者には与えてくださいません。

これは神様が作られた法則なので人間の力ではどうすることもできず、神様に求めた人は神様から与えられ、神様に求めない人は神様から与えられることはないのです。

このように神様は人類に多くのものを与えてくださる準備ができており、人類が神様に求めてくることを待っておられるのにもかかわらず、人々はこの法則に気づかず、自分の才能や富に驕り高ぶり神様に祈り求めることをしません。

神様を信じていなくてもとりあえずは普通に生活できているため、人は何かつらい出来事に遭いプライドを打ち砕かれ惨めな思いをするまでは自分の足りなさを認識できず、神様を探し求め神様に必死に祈り求める必要性を感じないからです。

「心から」「本気で」「必死に」「真剣に」求めるということは、プライドを捨て自分の足りなさや小ささを認てこそ始めてできるようになるのです。

しかし、神様を信じていない人は自分の能力のみで何かを成し遂げようとしますが、人間の能力には限界があるため、自分の力に頼っていてはそれなりの成果を上げて満足するしかありません。

何か成果を上げられればいい方で、プライドも自己評価も高い人は自分の実力を過信するあまり他人の忠告も聞かず、自己流のやり方に固執し失敗してしまうことがあります。

また、神様を信じず人間を信じるということは、時として善良そうに見える悪人を頼ってしまうこともあり、そのような場合は何も手にすることすらできないばかりか、持っている財産を奪われてしまう恐れもあります。

人間の力で何かを得ようとするとうまく行かないことの方が多く、かえって前よりも悪い状態になることもあるのです。

これは実生活においてもそうですが、信仰生活にも当てはまります。

まじめに信仰生活を送っていた人が聖霊や恵みを受け、実生活でも何か良いことが起こったりすると油断や慢心が生じ、神様にすがりつくことを止めて自分の楽しみを求めてしまうことがあります。

そうなってしまうと神様の栄光ではなく、自分の栄光や欲を優先して自分の考えだけで行動するようになります。

そこで何らかの罪を犯してしまうと、サタンに義の条件を奪われてしまい、せっかく良くなりかけていた生活がまた悪い状態に逆戻りしてしまうのです。

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。

そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。

そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。

ルカによる福音書 11章 24~26節

神様には人間の能力を遥かに超えた御力があるため、人間が自分自身で手に入れられるもの以上のものを与えてくださることができます。

また、神様を信じて祈り求めれば、人間が思いつかないような発想を与えてくださったり、騙されて被害に遭うことがないように守ってくださることもあります。

このように、神様の能力は人間の能力よりも遥かに高いため、人にいくら生まれつきの才能や能力があったとしても、真に神様にすがりつき神様から力と能力を受けた者には絶対に敵わないのです。

そのことを人類に悟らせるために、聖書には高慢や驕り高ぶることが罪であることや、神様に従順に生きて祝福を受けた人やプライドを捨て神様に祈り求めて祝福された人物のエピソードが多く述べられています。

聖書にはアブラハムをはじめ、ダビデ、ソロモン、ヨブなど、信仰が篤かった人物は神様から大いに祝福されこの世でも富や名誉を手に入れています。

特にダビデは誰よりも神様の偉大さを悟り、誰よりも自分の足りなさを認めて神様にすがりついたため、神様からの祝福を受けイスラエルの王として自身も国も大いに繁栄することになりました。

元々羊飼いだったダビデは預言者サムエルを通して神様からイスラエルの王として選ばれましたが、王としての実権は先代王のサウルにあり、サウルが遣わす追っ手から逃げ回る日々が続きます。

そのため、ダビデは自分の弱さや足りなさを心から実感しており、ただひたすら神様にすがりつくしか方法がありませんでした。

ダビデは人間の力ではどうすることもできない状況に陥っても、神様にすがりつけば必ず神様の御力で圧倒的に不利な状況を打開できると信じていたからです。

「詩篇」を読めば、ダビデが神様の偉大さと自身の小ささ・足りなさを悟り、どれだけ神様に助けを求めてすがりついていたのか、どれだけ神様に頼って生きていたのかが分かります。

恐れをもって主に仕え、おののきをもって その足に口づけせよ。

さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。

すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

詩篇 2篇 11~12節

羊飼いの末っ子であるダビデには元々プライドらしいプライドがなく、どこまでも神様にすがりつくことができたため、その信仰を神様に認められ神様が多くのものをダビデに与えられたことにより、イスラエルの歴史上最も偉大な王となれたのです。

元々羊飼いとして生まれたダビデには王になる野心などなかったにもかかわらず、ダビデが王となってイスラエルの国が栄えることになったのも、すべて神様の御力が大きく働いていたからです。

ダビデが神様にすがりついて生きている様子を神様が見られて喜ばれたからこそ、神様がダビデをイスラエルの王として立て、ダビデに従うイスラエル民族にも祝福を与えてくださったのです。

あなたの道を主にゆだねよ。

主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

詩篇 37篇 5~6節

ダビデは自分の人生を神様に任せることができたので、ダビデ自身の力ではなく神様の御力によって大きく繁栄することができたのです。

つまり、私たちもダビデのように自分のプライドを捨てどこまでも神様にすがりついてこそ、この世でもあの世でも神様から大いなる福福を受けられるということです。

しかし、自分の能力に慢心していると成長の必要性を感じなくなり、神様に祈り求めることや才能を伸ばす努力を怠るため、次第に神様からの祝福を受けられなくなります。

肉的にも霊的にも成長できず、この世でも大きな成功を収めることもできないばかりか、霊界でも低い階層の天国にしか入れてもらえないか、悪くすると地獄行きです。

そのようなことにならないためにも、現状に慢心することなく自分の足りなさを認め、神様にすがりついて祈り求めることで豊かに聖霊を受け、自分が誰よりも秀でた才能と能力を身に付けられるように努力し、霊的にも大きく成長させることが大事です。

どこまでも神様に近付けるよう、自分の成長させるために神様にすがりつくことです。

神様は人間が成長し神様のレベルに近付いて欲しいと思っておられるため、自分の現状に慢心し成長しようとしない、祈り求めないことが罪であると仰います。

神様は求めれば求めるほど与えてくださる神様なのですから、その神様に求めないことは神様の偉大さを悟れておらず神様のことを見下し侮っているからであり、祈り求めない、すがりつかないということは高慢の罪に当たるのです。

主はこう言われる、

「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。

力ある人はその力を誇ってはならない。

富める者はその富を誇ってはならない。

誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。

わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。

エレミヤ書 9章 23~24節

神様の偉大さを知り、自分の才能や富を誇らず神様のことを誇りとする人を神様は喜ばれます。

また、そのような人こそどこまでも神様にすがりつき祈り求めることができるので、神様も大いに祝福してくださるのです。

ダビデのように神様に喜ばれ、祝福を受けられる人生を送りたいものです。

自分を高めていくこと

自分ではどんなに才能があると自惚れても、人間の能力など神様の前では微々たるものなので、どこまでも上を目指して成長していかなければなりません。

この世では向上心というと単にもっと成長するためのことを言いますが、神様が仰る向上心とはどれだけ神様にすがりつこうとするかを意味します。

神様に心からすがりついて多くのものを豊かに与えてもらい、いかに神様のレベルに近付けるかが重要なのです。

神様は、人間が神様の御心や心情を理解できるまで限りなく神様に近いレベルまで成長し、神様と人間が愛し合うことを望まれているからです。

以前の無信仰の私ならこのような話を聞いても、人間の低次元の頭で考え「そんなことできるわけがない」と思っていることでしょう。

しかし、神様はこんな低レベルな人間が想像もつかない遥かに高い次元で物事を計画され、宇宙や地球、そして人間も創造されました。

神様は、人間が神様に祈り求めて能力を向上させれば神様の次元にまで成長できるように、神様のかたちで人間を創造されたのです。

神はまた言われた、

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

創世記 1章 26~27節

神様の次元にまで自分を成長させるためには、常に神様の次元がいかに高いものであるかを悟り、自分の足りなさを心から認め、どこまでも自分を高めるために神様にすがりつくことです。

そして、途中で慢心し信仰を破綻させないためにも、聖書や御言葉から神様がいかに高い次元におられるのか、神様が人間に対しどれほど高い次元にまで成長するよう求めておられるのかを悟っていかなければならないのです。

自分の足りなさや弱さを認めない者や、自分の信仰心が強いと思い上がっている者は心から神様にすがりつくことができないので、サタンの誘惑や攻撃に勝てず、いずれ神様から離れていってしまいます。

神様にすがりつくことができないということは、神様に対し二心を抱いている状態であり、サタンの誘惑に負けて簡単に罪を犯してしまったり、サタンの攻撃による苦痛に耐えられなくなり神様のことを信じられなくなってしまうからです。

しかし、自分の足りなさや弱さを心から認め、その足りなさや弱さを克服するために神様に心からすがりついて成長しようとする者は、どんなにサタンの誘惑や攻撃を受けても信仰が破綻することはありません。

神様にすがりつく人には神様の御力が強力に働き、神様がその人をサタンの誘惑や攻撃から守ってくださるからです。

極度の患難苦難が襲った時やその患難苦難に耐えられそうにないと思った時は、自分の足りなさや弱さをはっきりと認め、その患難苦難を乗り越えられる力を神様から受けられるように真剣に祈ることです。

ダビデのように神様にすがりつく精神を持つことです。

この精神力とはどれだけ神様にすがりつき、自分の足りなさを埋めていくかということでもあります。

神様に強く祈り求めることで、自分の足りない部分を人間のレベルを超えた神様の能力で埋めていくことです。

人間が自力で努力してもそこで得られる知恵や賢さには限界がありますが、神様に祈り求めてこそ、超人的な知恵や賢さを手にし、知能を大きく伸ばすことができるのです。

しかし、自分は足りていると自惚れたり、自分はもうそれなりの信仰があると高ぶっていると、自分の考えや思想や感情や思いを消すことができないため、神様にすがりつくことができません。

これらのプライドや固定観念を自分の中から消していくためには、これらの考えがなくなるように神様に祈り求めて神様の御力を受けなければできないのです。

このように信仰生活とはサタンが作り出したこの世の価値観の中で生きてきた自分を根本から変えることです。

この世の価値観に染まった自分の固定観念を無くして、神様の御心や心情を悟り新しい自分に作り替えることです。

つまり、今までとは全くの別人に作り替えることであり、古い自分の考えを持ったままでは全くの別人になったとは言えないため、神様も二心を捨てなさいと仰るのです。

神様の世界へは狭き門を通ってしか入れません。

狭い門からはいれ。

滅びにいたる門は大きく、その道は広い。

そして、そこからはいって行く者が多い。

命にいたる門は狭く、その道は細い。

そして、それを見いだす者が少ない。

マタイによる福音書 7章 13~14節

神様にたくさん祈り求めなければ、天国への狭い門を通って行くことができません。

狭い門を通るためには古い自分を捨ててこなければなりませんが、人間が自分一人の力で古い自分の全てを捨て去ることはできません。

信仰を持って間もない頃やまだ多くを悟れていない人は、厳しい御言葉を聞くと「こんな厳しい御言葉はどうやって実践できるだろうか」と思うものです。

しかし、本当に神様についていこうとすれば必ず実践できるように努力するようになり、何とかできるようにしていく中で神様に祈らずして実践できないことに気付きます。

神様に祈り求めて自分を変えようとしないのは、自尊心が邪魔をして御言葉を本気で実践しようとしてこなかった証拠でもあります。(以前の私がそうです。)

自分を変えようという気持ちが弱い(無い)と、御言葉を聞いても実践しないか、自分に都合がいい部分しか実践しないため、神様に祈り求めないか、祈っていても深く祈ることができません。

本気で御言葉を実践しようとしていないため、神様と繋がり聖霊や悟りを受けるための鍵となる祈りの重要性を悟れないのです。

そして、自分を変えようとせず御言葉を実践しないと楽で安逸な道を進むようになり、滅びの門をくぐることになります。

このように神様に心からしがみつかない者は、サタンの誘惑や攻撃に負けてしまい、やがて罪を犯すようになったり、神様を信じられなくなり信仰から脱落してしまうのです。

狭き門を通って神様の元へ行くためには、神様にしがみつき必死に祈り求め、神様の次元に近付けるように限りなく自分を成長させていくことが重要なのです。

神様にすがりつかないと聖霊を受けられない

大変な時に神様にしがみつくことは誰でもすることです。

「苦しい時の神頼み」とは正にこのことですね。

しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、人は楽になると苦しかった時のことや恩を受けたことをすぐに忘れてしまう生きものです。

そのため、サタンは人に物質や富や異性を与え、人の心を神様よりサタンが与えるものへと惹きつけ、人が神様から離れるように誘惑してきます。

その誘惑に屈しない人には更なる苦痛を与えて、その人が神様を信じられないように攻撃してきます。

サタンは手を変え品を変え様々なかたちで人々を誘惑したり攻撃することで、人々が神様にしがみつかないように仕向けてきます。

そこで多くの人々は神様を捨て、サタンが与える物質や富や異性で自分の欲を満たし、快楽や安逸の中で生きる道に戻り、滅びにいたる門へ向かいます。

そのような人生を送らないようにするためには、神様の偉大さを知り、いかに自分が神様の前では無力であり小さな存在であるかを認め、常に神様にすがりついて生きることです。

しかし、多くの人々は自分のことは自分でできるように育てられているため、自分の考えや能力を頼りに行動する習慣がついており、頭では分かっていてもなかなか神様にすがりつくということができません。

この世では人の手を借りず自分一人でできて一人前、いつまでも人の手助けを受けることは恥というように教育されていて、人に弱みを見せないように、プライドを持って生きることが当たり前のようになっているからです。

冒頭で述べましたが、私もプライドも捨てられず自己中心的な信仰生活をしていたせいで、罪の悔い改めも不十分で祈りも形式的なものでありましたので、聖霊を受けているという実感が持てませんでした。

しかし、「自分の足りなさを認めて神様にすがりつきなさい」という御言葉を聞いたことにより、それまでとは全く別物と言っていいほどの「これが聖霊か」という、今まで感じたことがない強力な力を感じることができました。

まだ有料記事が開始される前や開始当初から真面目に信仰生活をしている兄弟姉妹から見たら、取るに足らない程度の弱い感覚でしか聖霊(サタンからの悪霊でないことを祈ります)を受けられていないかもしれませんが、その当時のことを回想してみます。

この御言葉を聞いた直後に明け方の祈りをしていた時のことです。

とにかく自分のプライドを捨てて神様にすがりつけるように祈っていたところ、頭の中にひとつの風景が映し出されました。

その風景とは、植物や建物など何もない真っ平らな大地に雲一つない青空に燦々と光り輝く真夏の太陽という、幼稚園の子供でも描ける単純な構図です。

大地に無数に転がる小石や砂粒は人間であり、太陽である神様は誰にも平等に恵みを注いでおられます。

その中で私はと言えば、砂粒よりも遥かに小さい乾燥した土の微粒子でした。

風が吹くと土埃として舞い上げられる、この風景に登場する中で一番小さな存在です。

RAPTブログを知りながら有料記事を読まず、信仰生活を始めてもまだまだ自分が捨てるべきものも捨てきれない、兄弟姉妹の末席に位置する私の存在など微粒子程度のとても小さなものでした。

よく有料記事での御言葉では、神様と人間の違いを「人間と蟻」として例えられますが、神様と私とでは天と地ほどの差があり、神様はどこまでも大きく、どれほど距離が離れているのか想像もつかないほど遠い存在でした。

一方、私は自分自身で身動きが取れず、風で吹き飛ばされてしまわないように地面にへばりつくことで精一杯のとても小さく惨めな存在です。

子供に息を吹きかけられただけでも、どこに飛んで行ったのか見失ってしまうような小さい存在です。

そんな地表に落ちている私が仰ぎ見た太陽は、目が眩むほどの輝きを放ち、地上に向けて光や熱を豊かに与え続けています。

私はその時、太陽が地上を照らすように神様も人類ひとりひとりに分け隔てなく恵みを与えてくださり、埃のように小さく軽い私のことも気にかけてくださっていることに気付かされました。

その時、今まで感じたことがない感覚に包まれました。

頭が何かで締め付けられ、更に電流が頭頂部から脳に流れ込みビリビリと痺れているかのような感覚です。

それはまるで親が幼児の頭に手を当てて諭すように、神様が私に対し「ようやく神様の偉大さ、自分の小ささに気付いたか」と仰られているようでありました。

あまりにも大きくて遠すぎる存在である神様が、私のような者に対しても愛を与えてくださっている。

今まで神様の愛を感じられなかったのは、神様が私を愛されていなかったのではなく、自分のプライドが邪魔をし、自分の汚れて捻じ曲がった心を変えることができていなかったからだと感じました。

そして、神様の御心を知らず自分の考えを優先して生きてきたことが申し訳なく、祈りというよりはただただ神様に感謝するばかりでした。

こうして自分の不義を詫び神様に感謝し続けていると先ほどの感覚とはまた異なる、全身の表面が静電気で覆われているようにビリビリする感覚(今まで「聖霊?」と思っていたものの数十倍)と、胸の中心部から心地よい温かさが広がるような感覚も加わり、全身がビリビリする感覚に包まれました。

頭に受けたビリビリは強烈でしたが、不思議とビリビリしているのに不快感はなく、何かに優しく包み込まれているようで全身の余分な力が抜け、とても心地よい感じでした。

この日を境に祈りの時だけでなく、日常生活のふとした瞬間に神様のことを意識するよう心がけることで、聖書や有料記事の御言葉を読んだり音声を聞いている時などでも、これら三つのどれかを感じられる機会が増えていきました。

太陽が出ている昼間は、夜間に比べ明るく温かいことは当然のように感じているため、日常生活の中でわざわざ空を見上げ太陽を意識して見ることはありません。

空を見上げるとしても天気のことを気にして、晴れているか曇っているかを雲の様子を見て確認しますが、太陽を見て確認するということはしません。

太陽を直接見たところで眩しくてはっきりと見ることができないため、太陽によってもたらされる光や熱を感じても、昼間の明るさや温かさを太陽からの恵みだと改めて意識することもなくなります。(危険ですので太陽は直視しないでください。)

あまりにも日常過ぎて当然のことと思い込んでいるため、太陽の存在のありがたみを忘れてしまいます。

そして、太陽の姿を隠す雲を目で見やすい存在として意識して生活するようになっていきます。

この太陽を神様、雲をサタン(この世のもの・肉的なもの)に置き換えて考えてみます。

神様は私たち人類に多くのものを先に与えてくださっていますが、神様のことを意識しないと、既に受け取っているものや目に見えない霊的な恩恵に気付くことができません。

神様のことを意識しない(できない)ので、目に見えない霊的な存在である神様のありがたみを感じることができません。

そのため人間は目に見え実際に手にすることができる富や異性や名誉の方に関心を持ち、いつもそちらの方に意識を向けて生きていくことになります。

これらのものは神様が人間に対し「求めるな」と仰るもの(与えないと仰ってはいません)であり、サタンにその支配が許されています。

サタンの手に握られているということは、一般の人には手に入れにくい仕組みになっており、それこそサタンに魂を売った悪人たちがこの世で栄えているように、神様を裏切り罪を犯した人にはサタンから簡単に与えられるようになっているのです。

しかし、これらのものは自分の欲求を満足させるものではありますが、生きていくために不可欠なものではありません。

生きていくために不可欠である酸素や水や食料(植物・生物)は、もう既に手にすることができており、これらは神様が人類に与えてくださったものです。

初めから神様から与えられているものを、「あるのが当たり前」と人間が勝手に当然のことのように考えているから(なんと高慢なことでしょう)、神様のありがたみが分からず、感謝することすらできません。

そこで神様を意識するための簡単な方法と言えば、食事の時に神様に感謝を捧げることでしょうか。

余談ですが、子供の頃「お百姓さんに感謝しなさい」と教わったのは、神様を意識させないようにするためのサタンの洗脳工作だったのかなと思ってしまいます。

他にもっと簡単な方法としては、自分が呼吸をして生きているのも神様の恵みなのだと思って神様に感謝を捧げることです。

これなら時と場所を選ばず、神様のことを意識することができます。

私はこのようにして、とにかく日常の中で少しでも神様のことを意識する時間を増やしていき、日常で少しでもいいことがあると「神様ありがとうございます」と、神様に感謝することが習慣化していきました。

日常で神様を意識する機会を多く持つことにより、以前は「どうやってすがりつけばいいの?」と感じていたとても遠い存在だった神様が、私のすぐ側で見守ってくださっているように感じられるのですから不思議なものです。(まだ不完全なので一体にはなれていません。)

そして、常に神様を近くに感じることで、5分、10分の空き時間でも祈るようになったり、「神様が側で見ておられる」と意識することで誘惑に負けて罪を犯すことも減り、私自身の行動にも変化が出てきました。

とは言え、まだまだ油断して怠惰に過ごした時や、捨てたと思っていた二心が再び姿を現した時など、自ら神様を遠ざけてしまう愚行を犯してしまうこともあり、日々自分の罪を悔い改め、どこまでも神様にすがりついていきたいと思います。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。