二心を捨て神様を愛すること

私が最初に読んだRAPTブログの有料記事は「神と富とに仕えることはできない。」という御言葉についてのものでした。

「神と富とに仕えることはできない」という記事のタイトルは以下の聖句から引用されています。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。

あなたの宝のある所には、心もあるからである。

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。

しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

マタイによる福音書 6章 19節~24節

ひと言で簡単に言うと「神様だけを愛し、富(この世のもの)を同時に求めてはいけない」ということですね。

では、神様に対して二心を持つとはどういうことなのでしょうか。

神様の存在は愛であり、私たち人類に対して限りなく愛を注いでくださる存在です。

神様を愛するとは?」でも触れましたが、イエス様も私たちに対し、何よりも最優先で全力で神様のことを愛しなさいと仰っています。

神様は私たち人間はもとより宇宙や地球などあらゆるものを創造された方であり、人間から見れば正に雲の上の存在であり神様と人間とでは天と地ほどの差があります。

これほど人類と権力や能力に差がある神様が自ら「私だけを愛しなさい」と仰っているわけです。

本来なら神様の力をもってすれば、人間を神様の思い通りに命令し動かすことなど、ゲームで遊ぶプレイヤーが画面の中の登場人物を操作するように訳もなくできることです。

でも、それでは神様が人間を創造された意味がなくなってしまいます。

神様は神様が人間と互いに愛し合うことを望まれて、私たち人類を創造されたからです。

神はまた言われた、

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

神は彼らを祝福して言われた、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

神はまた言われた、

「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。

そのようになった。

創世記 1章 26~30節

このように神様はご自身と同じかたちで私たち人類を創造されました。

ただ容姿だけ同じに創っても、知能を持たない人形やロボットでは愛し合うことはできません。

たとえ知能があっても、動物並みの低い知能では神様の愛を認識できないので、人間は神様にとってペットのような存在でしかありません。

当然、飼い主とペットとという立場では、とても対等に愛し合うことなどできません。

そこで神様は人類に高い知能を与え、自分の意志で行動し、地上にあるものを食料として食し、材料や燃料として使用する権利を与えてくださいました。

他の動物には与えられていない能力や権利が、私たち人類には生まれながらにして与えられているのです。

本来なら人間に命令して従わせることもできる神様が、人間を愛するがゆえにこれだけのものを私たち人類に与えてくださっているのです。

これほどまでに純粋で強大な愛は他にあるでしょうか。

しかし、人々は神様がどれだけ人類一人ひとりを愛しておられるかを理解できず、神様以外のものを愛してしまいます。

人類の歴史が始まって以来、想像もつかないほど多くの人々が神様を愛さず、神様以外のものを愛してきました。

愛する人に自分の気持ちを理解してもらえず、多くのものを与えて尽くしているのに愛されないということは、どれだけ悲しくて苦しいことでしょうか。

神様は人間では想像もつかないほどの長い年月、とても多くの悲しみを味わっておられるのです。

そこで誰よりも神様の御心を悟られたイエス様は、信仰の基本として第一に神様を愛しなさいと仰られています。

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

イエスは言われた、

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、

『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

マタイによる福音書 22章 35~40節

神様を愛することこそが、神様に喜ばれ、神様から祝福を与えられ人類が幸福になることができる唯一の方法だからです。

神様と人が愛し合えば、神様は人類の創造目的を達成されて喜ばれ、その人も神様から祝福を受けて幸福になり、いわゆるWin-Winの関係となり全てうまくいきます。

しかし、神様と富を同時に求め、神様の愛に対し二心を持つということは浮気や不倫と同じことです。

神様はどこまでも寛大であるので、悔い改めて神様の元に戻るなら赦してくださいますが、改心せずに何度も繰り返すようでは、いずれ神様の堪忍袋の緒が切れて破局を迎えることになります。

恋愛関係での浮気より、結婚関係の不倫がより重い罪に当たるように、信仰が深くなり神様の愛を多く受けた者が犯した罪の方が重く、神様からの裁きも大きくなります。

そうなってしまえば、その人はこの世で神様とは無関係で生きていかなければならず、死んでからも地獄で永遠の苦しみを受けることになります。

そうならないためにも、神様は「神様だけを愛し、他のものを求めるな」と仰られるのです。

神様を愛するということは人間の感覚では分かりにくいので、少し視点を変え、人間の王と王妃の関係で例えてみたいと思います。

ある王が領内を巡行していたところ、一人のある庶民の娘と出会いました。

この王は賢明で善政を敷き国民を労り容姿も端麗なので、民の誰からも慕われ尊敬される存在です。

また、娘は裕福な家庭の生まれではありませんが、清く正しく生きていたため、王は妃としての資質をその娘に見出しました。

そこで王は後に家臣を遣わし、娘を王妃として城に迎えるよう、娘に結婚を申し込みました。

本来なら身分が違いすぎる関係なので、庶民の娘にとって王妃になることなど夢のような話です。

ただし無条件というわけにはいかず、王は妃として迎えるにあたり、娘に2つの条件を出しました。

第一の条件としては、王のことだけを愛すること。

第二の条件としては、所有している古いものは全て捨て、何も城に持ち込まないこと。

ここであなたはこの庶民の娘の立場になって考えてみてください。

王妃になるためには恋人と別れることになります。

王妃として城で暮らすようになれば、庶民とはかけ離れた身分になりますので、家族や友人と気軽に会える機会はなくなります。

その代わり、城には必要なものは何でも揃っています。それも庶民が持つよりはるかに上等なものです。

もし欲しいものがあれば、害悪にならないもの、王との関係を壊す恐れがあるもの以外なら、王に頼めば何でも与えてくれます。

もしあなたがこの娘なら、王妃になる道を選びますか?それとも一庶民として一生を終える道を選びますか?

いわゆるシンデレラストーリーで、人生に二度とない最大のチャンスです。

普通なら喜んで王妃になることを選ぶのではないでしょうか。

こうして晴れて王妃となった暁には、王妃として相応しい生き方をしていくことが求められます。

王と結婚したのですから、王のことだけを愛するのは当然のことです。

もし王妃が不倫などしようものなら、国を揺るがす大事件になります。

他にも、王の考え方や行動の仕方を学び、王妃としての考えや行動を新たに身に着ける必要があります。

庶民の立場では許されていた考えや行動が王妃として相応しくなければ、それらを行わないように考え方を変えていく必要があります。

また、王妃が欲しいものを自分で求めて手に入れることはできません。

欲しいものがあれば王に頼めば、王が必要なものを与えてくれます。しかし、王が不要なもの害悪になるものと判断した場合はその頼み事は却下されます。

一般家庭では妻がその家の財布を握っているケースもありますが、王妃が好き放題浪費することを王が放置していれば、いずれ財政が赤字になり国が傾いてしまいます。

王妃としての自覚が足りず、まだ庶民感覚で物事を考えているうちは、自分で欲しいものを手に入れることが当然のことに思え、自分で欲しいものを手に入れられないことは苦痛に感じるでしょう。

しかし、王を愛し、王の考えを知り、王妃として相応しい人に成長すれば、王が嫌うものを欲しがらなくなります。

王が好むものだけをリクエストすれば、王は王妃が望むものを全て与えてくれます。

こうして王と考えを一つにして過ごしていけば何事もうまく行き、幸福な人生を送ることとなりハッピーエンドを迎えることになります。

しかし王妃が、王に隠れて不倫したり、王が嫌うものを秘かに手に入れていたとなれば、その後の王妃の運命はどうなるでしょうか?

王に背いた罪で一生牢獄で暮らすことになるか、怒りの感情に任せて処刑されてしまうことでしょう。

王に対して「二心」を持つとこのように哀れな結末を迎えることになります。

この「王と王妃の関係」を「神様と人間の関係」に置き換えて考えてみます。

神様は人間でいえば絶対君主制の王です。

神様が王なら、例えは良くないですが私たち人類は差し詰め奴隷といったところでしょうか。(有料記事の御言葉では神様は人類のことを「蟻」に譬えられますが、神様と人類の差はそれほどまで大きなものなので、奴隷も人ということで勘弁してください。)

これほど身分に差がある王様が、自らのプライドを捨ててまで奴隷たち一人ひとりを愛してくださるのです。

現実の世界では王が奴隷たちと愛し合うことなどありえません。(尤も、王に神様の愛があれば奴隷など存在しないのですが、この世の権力者はみな悪魔崇拝者ですので。)

また、人間の王にはプライドがあるので庶民や奴隷は相手にせず、王侯貴族から結婚相手を選ぶでしょう。

しかし、神様は創造主という立場にありながら、自らのプライドを捨ててまで、私たち人類を愛してくださいます。

神様がそこまでして人類を愛されているのだから、人々も素直に神様を愛せればいいのですが、実際にはこの世にサタンも存在しているので、神様と人類の関係を邪魔してきます。

サタンが人類に「二心」を抱くように様々な誘惑を仕掛けてきます。

「二心」の意味を調べてみると「浮気心」の他に、「疑いの心」「背こうとする心」などが挙げられています。

そして、「二心」の同義語を調べてみると、「邪な心」「邪念」「悪意」「悪魔のささやき」などがあり、「二心」とは悪いことを考える心であるとも言えます。

つまり、「二心のある者」とは、神様を完全に信じていない者であり、罪の心を抱きサタンの誘惑を受けると神様に背く行為を犯す者でもあるのです。

では、絶対的な権力を持った神様を裏切った者の末路はどうなるでしょうか?

神様に対して「二心」を持てば、この世の権力者など遠く及ばない絶大なる御力によって、その人が二度と神様に近付けないよう、死後に永遠の地獄に閉じ込められることになります。

しかし、神様は人類が神様だけを愛すことで、その人が肉体の死後、霊となって神様がおられる天国に来られることを望まれています。

なぜなら、天国で神様と人が永遠に愛し合うために、神様は人類を創造されたのですから。

ところが、人が「二心」を持ってしまえば、神様とその人の関係は破綻し誰も幸福にはなれません。

ただ神様を恨み人類を妬むサタンのみが、神様の計画を邪魔して破壊できたことに満足し、高笑いすることになります。

このようなことにならないよう、神様は「二心を持たず、神様を愛しなさい」と厳しく仰られるのです。

では、信仰を持たず、神様を知らずに生きた方がいいのでしょうか?

仮に罪を犯していなければ、神様からの祝福は受けられず、運よく低い階層の天国に入れてもらえるかもしれませんが、これでは幸せな人生とは呼べないでしょう。

もし罪を犯して生きるなら、生前はサタンからこの世のものを与えられ栄えるかもしれませんが、死後は当然、神様から裁きを受け地獄に堕ちることになります。

更に、神様の激しい怒りを買うような罪を犯せば、サタンから与えられたこの世のものまで神様に奪い取られ、不幸の中でこの世を生きていくことになるでしょう。

このように、神様を愛さなければ神様の祝福を受けられず幸福とは言い難い人生になります。

信仰を持たないということは、神様を愛し、神様から愛され祝福を受ける権利を自ら放棄しているようなものなのです。

イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、

「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。

王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。

そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、

『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。

しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。

そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

それから僕たちに言った、

『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。

そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。

王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、

『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。

しかし、彼は黙っていた。

そこで、王はそばの者たちに言った、

『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

マタイによる福音書 22章 1~14節

先ほど庶民のまま一生を終える道を選んだ方は、このように王(神様)からの誘いを拒否した人に該当します。

目の前にすごく良いものを提示されても、自分が手にしているちっぽけなものの方が大事で、それを捨てて良いものを手にすることができません。

自分の価値観や考え方で頭の中が凝り固まり、その固定観念に縛られて生きていると、人生の岐路で判断を誤るか、いつしか二心を抱くようになり、人生を成功に導くことができません。

幸せになりたいと思っても、自分を変えることを恐れて古い自分を捨てられず、世間に対して愚痴や不満を漏らして生きていくことになります。

神様はすべての人を天国に招く用意をしておられますが、常に一人ひとりの心をチェックし、天国に招くに相応しい人のみを選んでおられます。

神様から選ばれる人こそが、人生における真の成功者となります。

どれだけ財産を蓄えたか、どれだけ高いポストに就いたか、どれだけ多くの異性と関係を持ったか、どれだけ娯楽に興じたか、これらをいくら誇ろうとも、神様が定めたルールの前では何の意味も成しません。

人類を創造された神様が求める条件を満たした者こそが、人生の成功者として真の幸福を手に入れることができるのです。

どの道を行くかは個人の自由ですが、神様が仰るとおり「二心を捨て、神様だけを愛して生きる」ことが人生において最良の選択であると言えないでしょうか。

とはいえ、自分の死後のことに関心がなければ、死んだ後のために今努力することに価値を見出せないかもしれません。

私自身も無信仰の頃は自分の死後のことなど考えませんでしたし、スピリチュアル系のテレビ番組も胡散臭くて見たこともありません。

尤も、スピリチュアルブームもサタン側が仕掛けたものなので、今となってはそれらを知らず変な先入観を待たなかったことが、素直に神様を受け入れることができたのだと思います。

あとは招いてくださった神様に感謝し、二心を持ってサタンの道に進むことなく、神様に選ばれるよう、ただひたすら神様への道を進むだけです。

このように神様のことを知ると、神様が人間の肉体よりも霊魂を重視されていることが分かりますが、神様はあの世だけでなくこの世でも人類を祝福されます。

聖書に登場する人物で二心を捨て神様だけを愛した人は、神様から大きな祝福を与えられてこの世でも栄えています。

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。

彼は言った、「ここにおります」。

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。

彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。

イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。

こうしてふたりは一緒に行った。

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。

彼は答えた、「はい、ここにおります」。

み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。

アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。

それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。

これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

主の使は再び天からアブラハムを呼んで、言った、

「主は言われた、

『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。

あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

創世記 22章 1~18節

アブラハムは一人息子のイサクを神様に捧げるよう命じられ、その命令に従いイサクを殺し神様に捧げようとしました。

長年子供がなく年老いてからようやく授かった大事な跡取りであるイサクを殺せと言われたら、普通の人ならいくら神様の命令でも実行することを躊躇うでしょう。

しかし、神様はアブラハムが何の躊躇もなく神様の命ずるままにイサクを殺して捧げようとしたことで、神様を第一優先にするアブラハムの行動を神様に対する義として認められました。

神様への愛を最優先し一人息子のイサクを捨てたことで、神様はアブラハムを祝福されました。

また、引用にあるようにイサクは殺されずに済み、アブラハムの元へ戻されました。

アブラハムはイサクを手放す決心をしたことで、実際にはイサクを失うことなく、生存中は神様から祝福を受け、子孫を多く残すことになりました。

神様に対して二心を持たなかったことでアブラハムは神様に選ばれ、ここで結ばれた契約によって子孫がイスラエルなどの民族となり、その中からイエス様も誕生することになるのです。

また、試練に屈せず信仰を保ち続けた義人としてはヨブの話が有名です。

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、

「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。

それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。

あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。

そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。

主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。

彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

また彼は男の子七人、女の子三人をもった。

彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。

全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。

この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。

ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記 42章 7~17節

ヨブはサタンの試みを受け、財産を失い、皮膚病に悩まされ、彼を見舞いに来た友人たちから批判を受けるという災難に遭いました。

あまりにもひどい災難が重ねて身に降りかかれば、神様に対し愚痴の一つも言いたくなりそうなものですが、ヨブはこのような試練を与えた神様を恨むことなく、信仰を保ち続けました。

そして試練に耐え抜き、ヨブをさんざん批判した友人のために祈ったことで神様からその義を認められ、財産を二倍に増やされ、子孫に恵まれ大いに繁栄することになりました。

このように、どこまでも一途に神様を愛したものだけが、アブラハムやヨブのように神様から祝福を与えられ、この世でもあの世でも豊かに栄えることになります。

無信仰であったり、聖書や御言葉で神様のことを深く学んでいない時は、頭の中がこの世のものに対する欲で満たされているため、「二心を持つな」という一言は大変厳しく感じられます。

しかし、神様の愛や「二心」を持つことの意味を理解できると、冒頭の「これからは二心がある者は聖殿に入れるな」という言葉にも納得できるようになります。

誰でも他人に危害を与える恐れのある者を自宅には招き入れたくはないですから、神様がご自身がおられる霊界を清く平和に保とうとされることは当然のことです。

このように、神様は神様を愛する者のみを招いて神様の元に集められ、サタンの影響下にある者を排除し、神様を愛する者を守ってくださります。

厳しく命じられるのも人類をサタンの攻撃から守るためであり、サタンの攻撃から人類を守ろうとしてくださる神様の愛を知れば、ただ神様に感謝するしかありません。

多くの人々が二心を持たず神様だけを愛し、人生の勝利者になれることをお祈りします。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。