放蕩息子のたとえ話で神様の愛を知る

私たち人類の存在は神様の前ではただの小さな砂粒のようなものです。

しかし、神様は70億人ともいわれる世界中の人々に対して、24時間絶え間なく愛を注いでくださいます。

私も祈りの際に今まで感じたことがないほど強力な聖霊を受けるという体験を通して、人生で経験したことがない愛を感じ、神様に対する感謝の気持ちが湧き上がりました。

この体験をしてから一週間ほど経った頃、何故だか急に放蕩息子のたとえ話が頭の中に浮かび上がったのです。

また言われた、

「ある人に、ふたりのむすこがあった。

ところが、弟が父親に言った、

『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。

そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、

『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

むすこは父に言った、

『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

しかし父は僕たちに言いつけた、

『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。

それから祝宴がはじまった。

ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

僕は答えた、

『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、

『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。

すると父は言った、

『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

ルカによる福音書 15章 11~32節

私は過去に無信仰だった頃によく「神なんていない」などと臆面もなく口にしていました。(今では口が裂けてもこんな暴言は吐けませんが。)

しかし、このような私でさえ信仰を持ち悔い改めることで、神様はこの父親のように天国で天使天軍と共に喜んでくださり、そして愛してくださっているのだと、このたとえ話のことがようやく理解できました。

その瞬間、冒頭で紹介した時と同様の神様に対する感謝の気持ちと、神様のお気持ちも知らずに自分勝手に生きてきた申し訳ない気持ちが同時に湧いて胸が熱くなりました。

私は神様の目から見れば放蕩息子の弟そのものです。

キリストであるイエス様でもない限り、罪を全く犯さない人など存在せず、神様の基準で見れば、人は誰でも何らかの罪で汚れているからです。

まじめに信仰生活を始める前は、まだ罪の悔い改めの重要性について理解していなかったので、このたとえ話を読んでも他人事のように感じていました。

「弟は普通なら勘当もののことをしているのに、神様(父親)は寛大な方だな」

「私はそこまで酷い生き方をしていないからまだセーフかな」

「私は弟より兄に近いかもしれないけど、兄の方も神様(父親)の考えを理解しないで、悔い改めた弟を赦していないから違うかな」

(このように上から目線で見ているということが高慢の罪があるということです。)

など、読む時の聖書の理解度によって感じ方は違いましたが、放蕩息子である弟のことが自分自身に該当するとは思ってもみませんでした。

罪を犯していることには変わりがないのに、「私は重い罪は犯していない」と、自分に都合よく解釈していたのです。(これも罪に当たりますね。)

これは聖書全般についても当てはまり、いわゆる教訓としてのたとえ話であったり、遠い昔の物語として聖書を読んでいました。

初めて聖書を読んだ時、数千年前の人が聖書に書かれているような表現をできるとは考えられなかったので、「聖書は神様の言葉だ」と感動したものでした。

しかし、比喩的表現が多い聖書の読み方を知らなかったため、「やってはいけないこと」が書かれているルールブックのようなつもりで聖書を読んでいました。

頭では罪として理解しているつもりでも、自分自身が罪を犯している者に該当しているという意識を感じていませんでしたが、RAPTブログの有料記事で御言葉や聖書の読み方を学び信仰生活を送るうちに、聖書に書かれている内容は他人事ではなく全ての人に当てはまるものだと、ようやく当事者として聖書を読めるようになりました。

御言葉と聖書がリンクするようになると、聖書の読み方というか受け取り方が変わり、自分の罪や足りないことが見えてきます。

信仰を持ってからも「まだ私は弟のように酷い罪を犯してしていないから赦されるはず」と甘い考えでいたのも高慢で自己中心的な考えがあったからです。

探してみると他にも、まだ「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」というレベルで神様を愛していない、二心を捨てきれていないなど挙げていけばきりがありません。

このように私にはまだまだ悔い改めていない罪や、罪だと感じていないで犯している罪がたくさんあることが分かりました。

そのことに気付かされた後に、また別な聖句が頭の中に浮かんできました。

自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、

『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。

おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

ルカによる福音書 18章 9~14節

私は祈りの時にはこの取税人のつもりで悔い改めていましたが、実際の私の心の中はパリサイ派律法学者と何ら変わりがなかったことを思い知らされました。

自分自身のプライドや高慢さが罪だと知ることにより、私がパリサイ派律法学者のような偽善者であったということに漸く気付けました。

聖書には神様が罪だと考えておられることが数多く記されています。

殺人や姦淫や窃盗といった誰が見ても罪だと分かることは、信仰を持たない人でもこの世の良識を持っていれば、これらの大きな罪を犯すことはありませんが、高慢で自己中心的な考えが罪だと言われても理解することは難しいものです。

世の中の常識として「それらは罪ではない」と思い込まされ、それが人々の固定観念となり、みんながそれを神様が罪だと仰っていることだと知らずに、当然のように行っているからです。

そして、「人から良く思われたい」という気持ち(これもプライドです)は誰にでもあるので、自分の悪い部分は見ないふりをして他人の目からも隠そうとします。

そのため、御言葉を知らずに聖書を読んでいた時は世の中的な考えや自己中心的な考えに縛られていたので、パリサイ派律法学者が悪人であることは理解できましたが、自分の考えの中にもそのような考えがあるのだということに気付けませんでした。

また、自己中心的な考えがあると、以下の聖句を読んでも「自分の考えを直そう」と罪がなくなるように悔い改めることもなく、相変わらずその悪い考えを持ち続けたままになってしまいます。

イエスは言われた、

「あなたがたも、まだわからないのか。

口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。

しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。

というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。

しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。

マタイによる福音書 15章 16~20節

頭の中で考えていることが人から見られないことをいいことに、表面は善人を装っていても考えで罪を犯し続けていてはパリサイ派律法学者と同じ偽善者です。

私に偽善的な考えがあったため、私の中にある罪に当たる考えを罪だと認めず、「私は放蕩息子である弟とは違うから大丈夫だ」と自分に都合がいいように解釈していたのです。

このように偽善的な考えがあると、自分のことを罪人だとは思っておらず、たとえそこに気が付いたとしても、「いや、そんなことはない」と自分を傷つけないためにも、それ以上自分の罪について考えることを止めてしまうため、心から罪を悔い改めることができません。

そして、人に気付かれていないと油断して心の中で罪を犯し続け、いずれは人間の心の中を見ておられる神様に裁かれてしまいます。

偽善的な考えがあると、「自分は正しい」「自分は間違ったことはしていない」と自分を正当化する心理が働き、やがてそれが高慢で自己中心的な考えとなり、固定観念として頭の中にこびりついていきます

固定観念とは厄介なもので、それが悪いものだから考え方を変えようと思っても、なかなか自分の思考の中から取り除くことができません。

長年生きてきた中で自分自身が練り上げて作り出した考えなので、ちょっとやそっとのことで、その固定観念を捨てて考えを変えるということは人間自身の力ではできないからです。

私は御言葉を聞いて自分が持っていた高慢や自己中心の罪に気付き、その罪が悔い改められるように神様に祈りました。

そして、このように祈ったことで今まで感じたことがないほどの聖霊を与えられ、その聖霊の御力によって固定観念という私の目にあった梁が取り除かれました。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。

ルカによる福音書 6章 41~42節

私の目にあった梁が取り除かれたことで、私自身が放蕩息子の弟と変わらない罪深き者であり、パリサイ派律法学者と同じく偽善者であったことが見えるようになりました。

私の持っていたプライドや高慢な考えを罪だと認め悔い改めたことにより、自分では気付いていなかった偽善的な考えや、自己中心的な考えが見えるようになったのです。

そして、かつて「弟の方はどうしようもないな」「兄も赦す心がないからまだまだかな」などと、自分の罪を棚に上げ兄弟のことを批評していたことを思い出すと、「自分も分かってなかったな」と苦笑するしかありません。

アダムとエバ、カイン、イスカリオテのユダなどが犯した罪を教訓として自分の罪を見直し、その罪を犯さないようにすることなら意義はあります。

しかし、この兄弟はイエス様が仰ったたとえ話に登場する架空の人物であり、存在しない人物の罪についてあれこれ批評したところで、ただの揚げ足取りにしかなりません。

まさに自分の目にある梁(罪)を認めず、兄弟のちりを見ている状態です。

そして、聖書には、人を裁いたり罪に定めることも罪だと記されています。

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。

また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。

ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

ルカによる福音書 6章 37節

人はともすれば自分の欠点には目を瞑り、他人の欠点ばかりが目に付いてしまうものです。

自分の罪を見付けて悔い改めようともせず、他人の罪の粗探しをしていては、聖書で読んだことがある罪についても、自分の考えや行動が罪に当たることだと認識せず、無意識のうちに罪を犯してしまいます。

人は皆キリストではないので、罪が全くないという人はいません。

殺人や窃盗などの大きな罪は犯していなくても、誰でも心の中で様々な罪を無数に犯してるのです。

それは神様の基準で見れば放蕩息子である弟と大差ありません。

そうと分かれば、まずは放蕩息子のように自分の罪を心から悔い改めることです。

自分では罪だという意識を持たずに行っていたことを罪だと認め、もう二度とその罪を犯さないと決心し、その悪い考えや間違った考えがなくなるように神様に祈り求めることです。

心から自分の罪を悔い改めて神様の元に戻ることで、放蕩息子と迎えた父親のように、神様は私たちを喜びと共に迎え入れてくださいます。

このように神様から罪を赦されて迎え入れてもらえたと感じた時に聖霊を豊かに受け、自然と神様を愛する気持ち、神様に対する感謝の気持ちが湧いてくるようになります。

もしも、あなたがまだ神様の愛を感じたことがなければ、一度あなたの心の中に隠れている罪や間違った考えを探し出し、それを素直に罪だと認め、その罪がなくなるように神様に祈り求めてみてはいかがでしょうか?

きっと神様はあなたを見て喜ばれ、豊かな愛で迎え入れてくださることでしょう。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。