神様を愛するとは?

信仰生活を始める前と後とでは、日常生活の中でいろいろと変化があります。

そのなかで最も大きな違いといえば、信仰者としての戒めを守って生活するのか、自分が好きなことやりたいことをやって生活するのか、ということではないでしょうか。

聖書の中には「信仰者」がというより、神様が教えてくださる「人」として守るべき戒めが数多く書かれています。

特に「モーセの十戒」は有名なので、内容は知らなくても、誰でも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

モーセの十戒

神はこのすべての言葉を語って言われた。

「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

あなたは殺してはならない。

あなたは姦淫してはならない。

あなたは盗んではならない。

あなたは隣人について、偽証してはならない。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

出エジプト記 20章 1~17節

その後も23章までは、イスラエルの民が守らなければならない「掟」が延々と続きます。

当時のイスラエルの民は、奴隷として扱われていた寄留地であるエジプトから逃れ、神様がアブラハムの子孫に与えると約束したカナンの地へと向かう途中のことです。

エジプトといえば悪魔崇拝が盛んな地でした。

イスラエルの民たちの中にもエジプトで悪魔を神として拝む者もいたはずで、自身の神様である主の存在を信じていない人々が多かったのでしょう。

そこに漸く、神様の言葉を人々に伝えることができるモーセが預言者として現れました。

そこで神様はエジプトからの脱出を機に、人々が神様を信じられるようになるために、モーセを通して人々に厳しい掟を伝えました。

神様がなさったのは、厳しい掟を与え悪魔崇拝をしていた者に対し目に見えない存在の神様を信じさせることと、悪魔崇拝者が行う行為を止めさせ、悪魔からの誘惑を断ち、人々を悪魔から守るという方法でした。

その後、ダビデ王の時代にイスラエルが建国され、ソロモン王の時代に栄華を極めますが、その繁栄も長くは続きませんでした。

王たちが偶像を作り悪魔を拝むようになり国は乱れ、遂には北イスラエルとユダという二つの国へと分裂してしまいます。

その後も王たちは神様を拝まず悪魔崇拝を続けたので、神様はお怒りになり悪魔崇拝者の国を利用してそれぞれの国を滅ぼされました。

ユダヤ人の間にモーセが伝えた戒めは「律法」という形で残りましたが、実際には人々はその戒めに従わなかったからです。

心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ

時は流れて、イエス様が誕生して御言葉を人々に伝えるようになります。

新約聖書のイエス様と律法学者とのやり取りの場面で、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」という御言葉があります。

「いちばん大切」ということですので、信仰生活において基本となる非常に重要な御言葉であることが分かります。

この場面は各福音書に引用されているので、それぞれを見比べてみたいと思います。

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

イエスは言われた、

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

マタイによる福音書 22章 35~40節

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、

「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。

イエスは答えられた、

「第一のいましめはこれである、
『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

第二はこれである、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これより大事ないましめは、ほかにない」。

マルコによる福音書 12章 28~30節

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、

「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

彼に言われた、

「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

彼は答えて言った、

「『心をつくし、精神をつくし、力をつく、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

彼に言われた、

「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

ルカによる福音書 10章 25~28節

以上のように「マタイ」「マルコ」「ルカ」の各福音書には、表現の違いこそあれ、同じ場面が描かれています。ヨハネの福音書には同様の場面は見当たりませんでした。

「マタイ」と「マルコ」では、「神様を愛すること」がいちばん大切な教えであるとされています。

「ルカ」では、「神様を愛すること」「自分を愛するように隣人も愛すること」で永遠の命が得られるとされており、「マタイ」「マルコ」にもこの二つの戒めが何よりも大事だとされています。

そこで、イエス様が第一の戒めと仰られた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』について考えてみたいと思います。

まず、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして』とあります。

「尽くす」の意味を調べてみると、「そのことのために全部を使う」「ある限りを出し切る」「他者のために精一杯働いたり努力する」「できる限りのことをしてこれ以上はないという状態にする」などの意味があるとされています。

「心」「精神」「思い」「力」をすべて出し切る、つまり「全身全霊をかけて神様を愛しなさい」ということですね。

「全身全霊」ではピンとこないという方もいるかもしれませんのでRAPTさんの言葉を拝借すると、「100%全力で神様を愛しなさい」ということになります。

私も実際に信仰生活を始めてみると、初めのうちは全力を出し切ることができませんでした。

それは今までの人生で「一番を目指す」という明確な目標を持たず、「そこそこうまく行っていればいいか」という生き方をしてきたからだと思います。

まだ信仰が足りないのもあるのでしょうが、どこかで力をセーブしていたり、「これくらいやったからいいかな」と自己満足していたりするので、今も100%かと聞かれたら、まだまだ不十分だと思います。

これは信仰生活を続け、祈りや聖書と御言葉を通して悟りを得、100%出し尽くすことを阻害する要因を排除し「心」や「精神」を強くさせ、自分が出せる「思い」や「力」をより強力にしていくしかありません。

では次に、「主なる神を愛せよ」とはどういうことなのでしょうか。

この「神様を愛する」という意味が分からなければ、全身全霊をかけて「何か」を行うことすらできません。

それこそ、自分の考えで全身全霊をかけて行ったことが、神様の教えに反する罪につながることだったら、後々神様からとんでもない裁きを受けてしまうことにもなりかねません。

モーセの十戒で「姦淫するな」と命じている神様ですから、愛すると言っても人間の男女間の恋愛とは全くの別物のはずです。

いったい、人間が目に見えず触れることのできない存在である神様を愛するとは、どのように愛すればいいのでしょうか。

イエス様や律法学者も旧約聖書を学んで、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』と引用されているので、旧約聖書に似たような言い回しがないか調べてみると、「申命記」に該当する箇所が見つかりました。

申命記

これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。

これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。

それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

申命記 6章 1~9節

モーセがしつこく何度も「神様の命令を守りなさい」と繰り返す中、『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』とイスラエルの民たちに述べ伝えています。

「神様を愛しなさい」ということは、「神様の命令を守りなさい」ということでしょうか。

他にも「心つくし、精神をつくし、~」という箇所があるので、それらも見てみます。

主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。

その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。

しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。

後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

申命記 4章 27~29節

「主を求めるならば」「主に立ち帰ってその声に聞き従うなら」

こちらは神様を愛することにはつながりませんでしたが、偶像や他の信仰が蔓延る地でも全力で神様を呼び求めれば、神様と通じることができ、神様の命令に従うなら救いが得られるということですね。

これは仏教や神道が根付いている日本で信仰を持つ者にとって、心強く希望を持てる御言葉です。

イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。

ただこれだけである。

すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。

申命記 10章 12~13節

「主を恐れ」「彼を愛し」「主に仕え」「主の命令と定めとを守って」

神様が人間に求めていることは、ただ一つ、神様を恐れ、神様を愛し、全力で神様に仕え神様の命令を守り、幸いを得ることです。

この御言葉の意味を悟り、ここからブレずに生きたいものです。

ここに全てが集約されている気がしますが、他の箇所も見てみます。

もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。

あなたは飽きるほど食べることができるであろう。

申命記 11章 13~15節

「主を愛し」「仕えるならば」

きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。

申命記 26章 16節

「掟を守り行わなければならない」

あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。

あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。

あなたがたの神、主に従って歩み、彼を恐れ、その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない。

申命記 13章 1~4節

全力で神様を愛しているかどうかを試されるとき、「愛しなさい」ではなくて、「主に従って歩み、彼を恐れ、その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない」とあります。

次は長くて一つの章まるごとになりますが、今まで見てきたことが盛り込まれているので読んでみてください。

わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。

たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。

あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。

主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。

そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。

あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。

しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。

そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。

これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。

わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。

すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。

それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。

またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。

しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。

あなたがたは必ず滅びるであろう。

あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。

わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。

あなたは命を選ばなければならない。

そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。

すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。

そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。

申命記 30章

ここまで見てきた中で、「主を愛せよ」と同様に、全力で行いなさいとされていることは以下の項目になります。

  • 主を求めなさい
  • 主を恐れなさい
  • 主に仕えなさい
  • 主の命令と定めを守りなさい
  • 掟を守り行いなさい

また、「全力でやらなければいけないこと」がいくつもあると力が分散してしまいますから、全力でしなさいということに矛盾してしまいます。

よって、これらのことは同じこととして考えた方がいいでしょう。

まとめてみると、「神様を愛することとは、神様を恐れ、神様に仕え、神様に求め、神様の命令を守って行うこと」であると言えます。

これまで『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』という御言葉を手掛かりに、旧約聖書から神様を愛する意味を調べてみましたが、新約聖書にはどのように書かれているのでしょうか。

新約聖書

新約聖書では「ヨハネの手紙」に神様を愛することの答えが記されています。

すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。

すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。

神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。

そして、その戒めはむずかしいものではない。

なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。

そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

ヨハネの第一の手紙 5章 1~4節

「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。」と、そのものズバリ、ストレートなお答えです。

他にもあります。

父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。

ヨハネの第二の手紙 6節

各福音書にはあったイエス様と律法学者とのやり取りの場面が「ヨハネ」だけ見当たりませんでしたが、ヨハネはこれだけはっきりと神様を愛することが何であるかを伝えていたのですね。

では改めて「ヨハネによる福音書」において「愛する」ということを伝える御言葉がないか調べてみます。

ピリポはイエスに言った、

「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。

イエスは彼に言われた、

「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。

わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。

何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。

その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、

「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。

イエスは彼に答えて言われた、

「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

ヨハネによる福音書 14章 8~24節

イエス様の教えを守る人はイエス様を愛しており、神様からも愛されると仰られました。

また、イエス様の言葉は神様の言葉であるとも。

これは「イエス様」を「神様が遣わす時代の中心者」に置き換えても同じことが言えます。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。

わたしの愛のうちにいなさい。

もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。

それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

わたしのいましめは、これである。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。

ヨハネによる福音書 15章 7~13節

こちらは第二のいましめ『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』に該当するでしょうか。

まとめ

神さまを愛することは、神様の教え(命令)を守り、それを実践していくことだということが分かりました。

ここでもう一度「モーセの十戒」を改めて見てみたいと思います。

  1. 主が唯一の神様であること
  2. 偶像を造って拝んではいけない
  3. 神様の名をみだりに唱えてはいけない
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけない
  7. 姦淫をしてはいけない
  8. 盗んではいけない
  9. 偽証してはいけない
  10. 他人の財産を無暗に欲しがらないこと

プロテスタントの場合「十戒」を要約すると以上の10項目になると言われていますが、2と3の間の文章にこのように記されています。

それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

出エジプト記 20章 5~6節

「わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには」と神様は仰ってます。

「神様を憎む者にはその罰が三~四代先の子孫まで及び、神様を愛し神様の教えを守る者には恵みが千代(永遠)に与えられる」と、神様はモーセに十戒を伝えていた時に仰っていたのですね。

それだけ大事な教えなので、モーセは申命記であれだけ繰り返しイスラエルの民たちに伝えようとしたわけです。

しかし、イスラエルの民たちにはそれが理解できず神様の怒りに触れ裁かれてしまいました。

また、律法学者たちも言葉として「大事な戒め」と理解はしていても、実際に戒めを守ることなく、彼らが率先してイエス様を迫害し、最終的には十字架にかけて殺害してしまいました。

2000年前の人たちに現在のような教育制度がなく、皆野蛮人だったので、簡単にイエス様を殺害してしまったのでしょうか。

そうではなく、律法学者という律法の専門家でありながら旧約聖書に記されている神様からの教えを蔑ろにし形式的な信仰生活を送っていたため、神様を愛するという信仰の本質を見失っていたからです。

神様を愛さない、神様の教えを守らないとなれば、それはもはや信仰とは言えません。

神様を愛さない者には神様は恵みを与えてくださいません。

神様を愛する者は神様の戒めを守り神様から聖霊を受けられますが、神様を愛さず神様の戒めを守らない者は、聖霊ではなく悪魔の霊を呼び込みます。

そして悪魔の誘惑に負け、神様の戒めを破り罪を犯してしまうのです。

「戒め」と聞くと、命令や禁止することをイメージさせ、何か束縛するもの、自由を奪うものと考えてしまいます。

信仰を持つ前の私は「戒めを守れ」と言われても、「日本から遠く離れたメソポタミア地方の、それもイスラエル民族という限られた人たちの話じゃないの?」と、信仰を持った今では考えられない発言をしていたかもしれません。

また、真面目に信仰に取り組む前は、聖書を読んでも、「3000年以上も前の時代のことだし、現代に当てはめるのは無理があるかも」と、戒めとして書かれていることを実際に行おうという意思は薄弱でした。

しかし、RAPTブログで悪魔や悪魔崇拝、悪魔が支配するこの世の仕組みを知り、さらに有料記事で聖書や御言葉について学んでいくと、私の考えや理解力も変化していきました。

アダムとエバの堕落によって人間が神様から見て奴隷のような地位に堕ちたことや、アダム以前からメソポタミア地方だけでなく、悪魔が地球規模で活動し、世界各地で偶像や自然など目で見えるものを神として拝ませ、神様の存在を人間に気付かせないようにしていたことを知りました。

そのような状況だからこそ、神様は壊れていた人間との関係を修復し、人々が悪魔の誘惑や嘘に騙されず神様との関係を維持していけるように、厳しい命令を与えて守らせるしかなかったことが理解できました。

とても厳しい命令を与えたのも神様が悪魔から人間を守るためであり、神様からの人間への愛の大きさを感じることができます。

そして、この戒めはイスラエル民族という特定の人だけにあるものではなく、全人類にとって必要な神様の教えだということが理解できました。

現在の世の中は物質的に豊かになり、娯楽や淫乱物があふれ一見栄えているように見えますが、それらに興じる人々は霊的には悪魔の奴隷になっていると言え、神様がイスラエルの民たちに十戒を与えた状況と変わらないのではないでしょうか。

信仰を持つ前の私もその中の一人でした。

信仰生活を始めて間もない頃は、まだ思考が悪魔が作り出したこの世の価値観に染まり切っていたので、戒めを守ることが苦痛に感じることもありました。

しかし、祈りの時間に日々悔い改め、日常で神様を意識するようにすることで、次第に娯楽に時間を浪費することもなくなり、特に必要でないものは関心を持たなくなるなど、余計なことで心を煩わすことがなくなりました。

少しずつですが、悪魔の束縛から解放されている感じはあります。

まだ始めたばかりの信仰生活ですので、まだまだ不完全で改善していく点が多々ありますが、神様が求められるレベルで心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくせるよう、神様を愛し続けていきます。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。