前回の「二心を捨て神様を愛すること」から引き続き、今回も二心を捨てることについて考えてみたいと思います。
「神と富とに仕えることはできない。」という有料記事は音声での配信でしたが、RAPTさんが冒頭で仰られた御言葉は「これからは二心がある者は聖殿に入れるな」という、信仰の第一の戒めである神様を愛することさえままならない私にとって、とても厳しく感じられる一言から始まりました。
私はこの一言で後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けると同時に、自分がいかに信仰を甘く考えていたのか目を覚まさせられました。
聖書を読んで「神と富とに仕えることはできない」という聖句は知っていましたが、有料記事を購読するまでは信仰生活に本気で取り組むという意識が欠如していたのです。
私は今までの人生が無信仰であり、私の周辺にクリスチャンが少なかったので知らないだけかもしれませんが、クリスチャンが多い欧米人もそこまで真剣に信仰生活をしているようには見えませんでした。
また、世の中を見渡すと、人々は二心を捨てるどころか、富や異性や地位や快楽や享楽を求めて生きています。
当然、このような世界で生きていたため、私の考えも富(この世のもの)に傾いており、当時はまだ神様を第一優先に考えることができませんでした。
信仰についての考えが甘かったのも、自分の考え方がこの世的なもの(悪魔の価値観)で満たされており、神様の考えが私の中に入っていなかったからです。
RAPTブログによってキリスト教が悪魔崇拝者によって信仰的に破壊されていることを知りながら、御言葉を実践できていなかったのは私の中に悪魔的な考えが頑固にこびり付いていたからです。
有料記事の開始時から読まなかったのも、信仰に対して半信半疑で自分の価値観を優先して考えていたからでしょう。
他の兄弟姉妹たちが予想をはるかに超えるほど先に進んでいる現実を直面し、一人だけ遠くに取り残されたショックと危機感を感じました。
当初抱いていた、マイペースで信仰的に成長していけばいいとの甘い考えは、最初のスタート時点で完全に打ち砕かれました。
しかし、この厳しく感じられる「二心を持つな」という一言も、信仰生活を再スタートさせる時に受ける御言葉としてこれ以上ないものでした。
上記の様に中途半端な気持ちで信仰生活を送っても、結局のところ二心を捨てられず信仰を維持することが難しくなり、神様から離れていくことになるでしょう。
仮に信仰を続けていたとしても、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」という第一の戒めを守ることができません。
これでは形式的な信仰となり、いずれ神様から裁かれてしまいます。
私はこのようなことにならないために、自己中心的な信仰を改めるところでしたので、「二心を捨て神様だけを愛しなさい」という御言葉はタイミング的にぴったりでした。
私の持っていた考えや価値観は、神様の御心とは程遠い悪魔の考えや価値観でしたので、この悪魔の考えを捨てていき、神様の考えに自分の考えを近づけていくことが信仰生活の目的でもあるからです。
また、このタイミングで有料記事を読むようになったのも、私が持つ高慢や無知蒙昧といった罪の部分を神様が教えてくださるためだったのかもしれません。
このような経緯を経て、ようやく私はまともな信仰生活を送るようになりました。
二心を捨てなければ、神様の愛を感じられない
二心を捨てるとは、神様以外のもの、言い換えればこの世のものを求める心、欲や執着を捨てることです。
これは、ただ持っている物を捨てたり、この世のものを求めることを止めるという思考の一部を変えることではなく、自分が持っている古い考え方を捨て、新しく神様の考え方を入れていくということでもあります。
神様の考えを自分の中に入れていくためには、聖書や御言葉を実践して、神様が何を考えておられるのか、どんなお気持ちでおられるのかを知らなくてはなりません。
そして、神様のことを意識し神様の存在を感じ、祈りでより深く神様と繋がり、神様の愛を受けることです。
神様は私たち人類に他の動物たちにはない様々な能力を与えてくださいました。
このことだけでも私たち人類にとって大きな恵みでありますが、神様は絶えず全人類を見守り、各個人に公平に愛を注いでおられます。
ただ、人間は神様について無知であったり、この世で活動するサタンが作り出した価値観に汚染され生きているので、神様の愛を感じることができません。
神様の愛は空気と同じように私たちの周りに存在しているにもかかわらずです。
ではなぜ、神様の愛を感じることができないのでしょうか?
それは、人々の意識がこの世のもの(富や異性や名誉など)を追い求めていると神様を意識することができず、神様の愛を感じることができなくなるからです。
つまり、二心を持つことを止め、この世のものに対する未練や執着をきっぱりと捨てることで、神様の愛を受けられるということです。
信仰を持たない時や、信仰を持って間もない頃は、「世の中のものを求めるな」と言われても理解できず、「そんなことできるか!」と考えてしまいます。
神様を完全に信じ切れずこの世の価値観に縛られている二心のある状態なので、この世のものを求めることを止めるということに不安と恐怖を感じてしまいます。
「この世のものを求めないで、どうやって生きていけるのか?」と。
しかし、神様は「世の中のものを求めるな」と仰いますが、「世の中のものに触れるな」とも「世の中のものに関心を持つな」とは仰られてはいません。
ただ、「世の中のものを追い求めず、神様のことを愛し、神様だけを求めなさい」と仰っているだけです。
「富や異性や名誉が欲しい」「快楽や享楽を得たい」と、この世のものに対する欲望があると、頭の中は「手に入れたい」「やりたい」という考えで埋め尽くされてしまいます。
そうなってしまうと、頭の中には神様のことを考える余地がなくなり、神様を愛することも、神様の愛を感じることもできなくなってしまいます。
このように、人々にこの世のものに対する欲望を植え付けることで二心を持つように仕向け、神様よりこの世のものを愛するように誘惑してくるのがサタンです。
サタンはその人が欲しいもの、夢中になることを知り尽くしているので、的確に弱点を突いて誘惑してきます。
サタンは人々を堕落の道に引きずり込もうと、テレビやインターネットやSNSなど様々なメディアや人々を使い、ありとあらゆる方法で誘惑してきます。
私は幸運にもRAPTブログで神様のことやサタンから身を守ることを学びましたが、インターネット上にはサタンの誘惑が至る所に存在するので気を付けなければなりません。
このように、普段の何気ない行動の中に潜むサタンの誘惑を払いのけ、二心を持たず神様を愛するためには、どうすればいいのでしょうか。
それには、聖書や御言葉で神様の考えやお気持ちを知り、罪を犯す原因となる自分の考えや欲を捨てていき、祈りで神様のことを意識し、神様を愛することが重要になります。
できることなら、いきなり自分の考えや欲を全て無くしてゼロにしてしまいたいところですが、初めのうちはなかなかうまくいきません。
自分では「良くないこと」だと分かっていても、一度覚えてしまった楽しさや快感を忘れられず、なかなか二心を捨てることができません。
最初は神様にについての知識が足りないので、神様の愛や神様から愛されて与えられる祝福の本当の価値を理解できず、目で見え触れることのできるこの世のものを重視し、それらを手に入れることが幸福だと思い込んでいます。
自分の考えがサタンが作り出したこの世の価値観に染まっているので、欲を捨て、罪につながる悪い習慣を止めることをつらく感じてしまいます。
サタンの甘い囁きは耳に心地よく快楽や享楽にいざなってくれます。
その快楽や享楽に溺れて生きていると、神様の御言葉はどこまでも厳しいので、自分を不幸にさせる言葉ではないかと思うかもしれません。
ここで子育てを例に考えてみます。
子供の幸せを願う親なら、その子が社会に出てまともに生きていけるよう、適切な教育を受けさせ、善悪を判断できるように躾け、育てていくはずです。
子供にとって厳しく感じることも、親がその子の将来のことを考えているからであり、その子も親の立場になれば、親が自分を厳しく育てたことは愛があってのことだと理解できるようになります。
「親の心子知らず」と言いますか、子供の立場では親の気持ちは分かりませんが、それと同様、人間も神様のことを理解しようとしなければ、神様の愛を理解できないのです。
一方、親が子供が欲しがるものを欲しいだけ与えていたら、その子はどんな人になるでしょうか。
きっと、自己中心的で我儘な人になってしまうでしょう。
ここであえて「大人」と表現せず「人」としたのは、このような人はたとえ見た目は大人でも、中身である考え方や精神が幼く子供と変わらないからです。
子供のまま社会に出て行けば、その人はどうなるでしょうか?
自分を律することができず自堕落な生活をして身を持ち崩してしまうか、正しい判断ができず詐欺師に騙され財産を失うことになってしまうでしょう。
他にも、欲望のままによく相手を見定めず結婚し、DVで苦しんだり、不倫問題で家庭が修羅場となったり、離婚してしまうことも考えられます。
親の立場で考えれば、自分の子がこの様に人生で失敗することを望むはずがありません。
神様のお気持ちも同じように、人間がサタンの誘惑に騙され人生を失敗する生き方をすることを望んでおられません。
神様が人間を創られたのですから、人間が人生を成功させる生き方も、神様が人間を創ろうと計画されたのと同様に用意されています。
人は本来神様を愛し神様の教えを守って生きていれば、道を誤ることなく人生を成功させ、神様が用意されている祝福を受け、神様も人も共に幸福になることができるのです。
しかし、霊であり見えない神様の存在に人々が気付くことができないよう、サタンが人々に物質や異性を与えて誘惑し、神様が人間と愛することを妨害します。
人間は目に見えるものは関心を持ちますが、見えないものへの関心は目の前にある見えるものに比べれば低くなります。
人は、誰も見たこともない物凄いお宝を目指して頑張るより、目の前に差し出された見た目は奇麗なガラクタを楽に生きて手に入れることを選びます。
サタンの作り出したこの世の価値観で判断すると、神様の考えや気持ちを理解することができません。
この世のことしか知らず、肉体の死後、霊となって永遠に生きる世界のことを知らなければ、神様を信じることも、神様を愛することもできません。
そこでまずは、この世のものに対して意識が向いている時間を減らし、聖書や御言葉で神様の教えを知る時間や、祈りで神様につながる時間を増やすことから始めてみます。
私の場合、いきなり旧約聖書から読み始めると理解するのが難しいとの助言から、途中で挫折してしまっては元も子もないと思い新約聖書から読み始めました。
聖書を読むと戒めとしてやってはいけないことが書かれていますので、聖書ではっきり禁じられていることはやらないように行動や考えを変えていきます。
モーセの十戒では「殺人」「姦淫」「盗み」「偽証」「貪ること」が禁じられており、イエス様も「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え」と仰っています。
またイエス様はこうも仰っています。
さらに言われた、
「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。
不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
マルコによる福音書 7章 20~23節
これらの「悪」とされていることを行わないようにまずは一日過ごしてみます。
殺人や盗みは犯罪になるので、正常な考えの持ち主なら実行したいと思うことはないでしょう。
どうでしょうか?
また、偽証というと嘘をつくことですが、政治家や詐欺師でもない限り、まともに生きている人なら嘘をつく機会は一日の中でそうそうあるものではないです。
そう考えると、大きな罪として禁じられているものでは、「富や物を欲しがる欲」「性的なものに対する欲」が残るので、それらに特に注意してみます。
このように罪を犯さないように意識して一日を過ごしたら、祈りの時にその日一日を振り返り、自分が犯した罪を悔い改めて、その罪がなくなるように神様にお祈りします。
これを日々繰り返すことで、自分が犯しやすい罪、二心となる欲や悪い考えが次第に見えてくるようになります。
ここがその人にとっての弱点でもあるので、サタンはそこを狙って様々な誘惑を仕掛け、その人に罪を犯させようと攻撃してきます。
聖書や御言葉を読んだり、祈りや賛美をしている時間以外、つまり神様のことを意識していない時間は特に注意が必要です。
職場や学校以外の余暇の時間は誰でも少なからずあるはずです。
その余暇の時間にテレビを見たり、ゲームをしたり、SNSをしたり、ウェブサイトを見たり、猥褻物を見たりと、神様とは関係ないことをしていることが多いのではないでしょうか?
サタンはこのような神様を意識していない時間に、この世のものに対する欲や神様の教えとは違う罪につながる考えを人々の頭の中に植え付けていきます。
そして、神様以外のものを同時に愛せば二心を持つことになります。
もしも、この二心の考えが大きく育ち罪を犯してしまえば、サタンが仕掛けた罠にまんまと嵌まってしまうことになります。
間違っても、サタンが与えた二心の方を手放さず、神様を捨ててしまうことだけは避けなければなりません。
このような事態にならないためにも、日々悔い改めて罪に繋がる自分の中の悪い考えを捨てていくことが重要になります。
初めのうちはなかなか思うようにいかず、いけないと思っても罪を犯してしまうこともあります。
今までは罪ということすら知らなかったのですから、「いけない」と気が付いただけでも大きく成長しているのです。
ですから、できない自分を責めたり、落ち込んではいけません。
「自分はダメな人間だ」と落ち込んでいる時はサタンが好む悪い波長が出ているので、そこにサタンが群がってきて、また罪を犯すように誘惑の種を頭の中に仕込んでいきます。
ここでまた罪を繰り返してはサタンの思惑通りになってしまいます。
このように罪を繰り返すことがないよう、罪を犯したらすぐ悔い改め、自分の罪がなくなるようにひたすら神様にお祈りします。
また、神様よりもこの世のものに対する価値を重く考えていると、様々な欲を捨てることがつらく感じてしまいます。
まずは罪とはっきり書かれている異性や富を求めることを止めてみるのです。
そこですぐに「自分にはできない」と諦めてしまってはいけません。
某漫画のA先生ではありませんが、諦めたらそれこそあなたの人生が終わってしまいます。
ここで諦めたら、永遠の天国に入る権利を放棄してしまうことになります。
そんなことにならないよう、二心を捨て世の中のものに対する欲がなくなり神様だけを愛せるよう、神様にお祈りをします。
いきなり欲を全てなくすことができなくても、日々自分の罪を悔い改め、二心をなくし罪を犯さないように必死にもがいて頑張ることです。
このように努力を続けていれば、一人ひとりのことをを常に見ている神様はその人に祝福を与えてくださります。
次第に神様から聖霊を受けられるようになり、神様と繋がっていることを感じられるようになっていきます。
この聖霊を受け、自分の霊を神様の愛で満たしてあげるために、二心を捨てることが重要なのです。
世の中のものを無闇に求めない生活を送っていると、いつの間にか今まで欲しくてたまらなかったものがどうでもいい存在に思えてきます。
実際に無くても生きていけているので、それを手に入れようとあれこれ思い煩うことがなくなります。
自分にとって本当に必要なものが何なのかが見えてくるので、考えや行動がシンプルになっていき、悩みがなく心も軽やかに生きていけます。
しかし、欲を捨てられないと、それを手に入れたり実行するために、頭の中が四六時中そのことで一杯になり、とても神様のことなど考えている余裕などありません。
欲望で頭の中が満たされ二心がある状態では神様を意識することができないので、神様からの聖霊を受けることができなくなります。
あれにしようかこれにしようか、どうしようかこうしようか、先にしようか後にしようかなど、欲望の火が燃え盛るときりがなくなり、次第に思い悩むようになっていきます。
この思い悩む時の波長もサタンが好む波長なので、またまたサタンを呼び寄せてしまうことになります。
人によっては苦労して手に入れたものにすぐに飽きてしまい、また別のものを欲しがったりします。
この世にある目に見えるものは簡単に比較できてしまうので、物でも人でも、自分の持ちものより他人のものまたは自分が知らないものの方が魅力的に思え、それが欲しくなってしまいます。
自分が手にしているもので満足できず、心が満たされないので、次々とこの世のものを求め続けてしまうのです。
このように欲深くなるとサタンを常に側に置いているようなものなので、とてもではありませんが神様を感じることなどできません。
いくら物を手に入れても心が満たされず、また同類のものを欲しくなってしまう。
いくら異性と性的関係を重ねても心が満たされず、何度も同じことを繰り返してしまう。
このような人は、たとえ金持ちで他人から表面的に幸福そうに見えたとしても、この世のものでは心が満たされず、心が病んでいる状態です。
心が満たされないのは、神様からの聖霊を受けられず、その人の霊が苦しんでいるからであり、いくら物質的に心を満たそうとしても霊が満足できないからです。
だからこそ、この世のものに対する欲を捨て神様を愛することが、心を健康に保つためにも必要なのです。
信仰生活を続けこの世のものに対する欲を捨てていくと、神様とつながりやすくなり聖霊を受けられるようになっていきますが、また聖霊を受けられなくなる時があります。
そのような時は自分が罪を犯していたり、自分の考えが神様が望まれているものと違うため、神様とつながりにくくなっているからです。
それが罪であれば、神様にお祈りをし、悔い改めればいいわけです。
もしそれが自分の考えであれば、この世のものに対する欲と同じく自分の中から捨てていかなければなりません。
人は誰でも自己中心的な考えやプライドを持って生きています。
しかしその考えは自分を優先する考えであり、神様を第一に愛することを妨げる原因となりますので、これも神様から二心として見なされます。
神様はすべてを創造された神様としてのプライドまで捨てて人間を愛してくださいます。
神様がそこまでしてくださるのに、人間が自分のプライドを捨て切れない状態では、真に神様を愛しているとは言えないでしょう。
また、自分のプライドを捨てきれていないということは、神様より上に立ってしまっていることになります。
自分のプライドを捨てて誰よりも低い立場になることが、神様と対等な立場となり、神様の考えと同じになることができるのです。
イエス様も、神様がどのようなお考えで私たち人類を愛されているかを示すため、イエス様ご自身が弟子たちの足を洗いました。
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。
イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、
「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
ヨハネによる福音書 13章 1~17節
イエス様がおられた当時は2000年も前のことなので、人々は現代のような靴を履いて生活しておらず、汚れた主人の足を奴隷が洗う習慣がありました。
この足を洗う行為は本来奴隷が行う行為でしたので、身分が高い人が行うことではありません。
しかし、教師であるイエス様が弟子たちの足を洗おうとなさったので、ペテロは「私の足を決して洗わないでください」と断りました。
人間の感覚では目上の人に奴隷がする行為をさせることは憚られますが、イエス様は神様の考えや神様が人類になさっていることを弟子たちに示すために、自ら手本となるように行って見せられたのです。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
マタイによる福音書 23章 8~12節
人間の考え(悪魔が作った価値観)では、身分や権力を持つ人はその力を誇示し、目下の者を使役し働かせます。
しかし、神様の世界では権力があるものほど他者に仕え働くことが価値ある行為とみなされます。
このことを弟子たちに伝えるために、イエス様は貴人が行わない奴隷が行う足を洗う行為を弟子たちに行い、弟子たちが神様の考えを理解し行動できるように手本として見せられたのです。
このように、神様は創造主としてのプライドまで捨て、私たち人類のために働いてくださっているのです。
ところが、私たち人間が自分のプライドを持ち自己中心的な考えでいたらどうでしょう?
天と地ほど身分に差がある神様が、自らのプライドまで捨て人類を愛してくださるのですから、私たちも自分のプライドを捨てなければ神様を対等の立場で愛することができません。
自分の古い考えを捨て、新しく神様の考えに変えていかなければ、神様を第一に愛することができません。
神様が厳しく「二心を捨てなさい」と仰られるのも、人々が自分の考えを捨て、第一の戒めである「神様だけを全力で愛しなさい」という御言葉を実践できるようにするためなのです。
しかし、人が自分の古い考えを捨て、新しい考えに変えることは難しいことでもあります。
変えようと決心しても、古い考えが自分の中に残っていると、何度でも元に戻ってしまいます。
また、この世のものに対する欲は捨てられても、なかなか「自分らしさ」「こだわり」「プライド」といった自己を形成する個性や特徴を捨て切れません。
自分の考えを捨てることは自分が自分でなくなるように思え、不安や恐怖を感じることもあります。
しかし、自分のアイデンティティとして大事にしていたものが、これまでの人生でどれほど役に立ったでしょうか?
人生を振り返ってみると、これらのものがたいして役に立たず、却って罪の原因になっていたり、不安や悩みの元となっていることすらあります。
この世のものしか知らず、サタンの価値観によって作り上げた自分の考えやアイデンティティなら、不幸にこそなれ真に幸福になれるはずがありません。
サタンの影響を受けた自分の考えなど、神様の前では何の役にも立ちません。
神様によって幸福になりたいのなら、こんな役立たずな自分の考えなどゴミも同然なので、いつもでも大事に握っていないでさっさと捨ててしまえばいいのです。
しかし、変わりたい自分に対し、変わりたくない自分が物凄く抵抗します。
これでは、神様を愛するように自分を変えたいと思えども、自分の考えを捨てられず、自分を変えることができないままです。
まだまだ、神様のことを理解しておらず、神様が与えてくださるものの価値を低く、サタンが与えるこの世のものの価値を高く評価しているからです。
ここから自分を変えていくには、ひたすら聖書や御言葉で神様の考えを学び、自分の考えを捨て、神様の考えを入れていくことです。
そして、神様の愛を感じる障害となる自己中心的な考えやプライドを捨て、神様の考えと同一になるように自分の考えを合わせていくことです。
毎日祈りと悔い改めでこれらのことを繰り返し行っていけば、次第に二心もなくなり、自分の考えも変わっていきます。
そうすれば、富や異性や名誉などを求める欲、この世のものに対する執着や未練がなくなり、悩みや不安を感じることがなくなっていきます。
二心を捨てれば捨てるほど、心の煩いがなくなり毎日楽に生きていけます。
このように話すとまるで世捨て人になるように勧めているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。
神様は「世の中のものを捨てろ」と仰いますが、「世の中のものに触れるな」とも「世の中のものに関心を持つな」とも仰ってはいません。
この世で生きているからには、世の中のものに関わらないで生きていくことなどできないからです。
神様が人類や世の中のものを創り出されたのですから、そのようなできもしない無理なことは仰いません。
神様が仰るのは、世の中のものを追い求める生き方ではなく、ただ神様を愛する生き方をしなさいということです。
神様が仰るとおり神様だけを愛し求めていけば、アブラハムやヨブが祝福を受けたように、必要なものは神様が与えてくださいます。
とにかく、神様に「どうしたらいいでしょうか」と祈り求めていけば人生がうまく進むように、神様がこの世の仕組みとして作られているからです。
神様が望むことを祈り求めていけば、自然と自分が神様の御心を成していけるようにできています。
御心を成すためには、自分の思考が神様の考えや気持ちと一体になれるように祈り求めることです。
神様以外のものを追い求めることに時間を浪費することを止め、神様の御心を追い求めるために聖書や御言葉から学び、祈ることに時間を使うようにすることです。
私たちはもう既に神様から多くを与えられているのですから、いつも神様に求めてばかりではいけません。
神様は先に私たち人類に多くを与えてくださっているのですから、これ以上の祝福を得たいと思うなら、私たちも神様に与えないと更なる祝福を受けることができません。
今度は私たちが神様から与えられた才能や個性を使って、神様が望んでおられることを行って恩返しをする番です。
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。
それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。
「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。
しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
コリント人への第一の手紙 6章 15~20節
当時の人々が神様に従順でなく罪の中で生きたいたので、神様は人々の罪の贖いとしてイエス様が十字架にかけられる運命を選択せざるを得ませんでした。
本来なら神様から見捨てられてしかるべき罪多き人々のために、誰よりも神様を愛されたイエス様が犠牲として捧げられたのです。
イエス様が十字架の犠牲となられたおかげで、後世の私たちも神様から捨てられることなく、今でも神様から愛されているのです。
つまり、人生での敗北である地獄行きを一時保留され、敗者復活のチャンスを与えられているわけです。
私たちは既に神様から与えられ、イエス様の犠牲によって救われているのですから、神様の愛を理解しその愛に報いる生き方をし、神様から合格と認められなければなりません。
私たちはまだ完全に復活できたわけではないので、神様が与えてくださる愛も条件付きの愛です。
神様の条件を満たす生き方をすることで自分自身を成長させれば、次第に神様から受けられる愛の量も増えていきます。
神様を愛し神様の条件をどんどん満たしていけば、この世でもアブラハムやヨブのように大きな祝福を受け、あの世でも天国に行けるようになるのです。
しかし、せっかく与えられたチャンスを活かさなかったり自ら放棄してしまっては、神様からは見捨てられてしまうことになり、当然神様の愛を受けられなくなります。
そうなると、その人には神様の救いがなくなり、ただサタンの餌食となるだけの人生しか待っていません。
どのように生きても最終的に地獄が待っている、希望や喜びがない不幸な人生です。
そのような人生を歩まないためにも、神様が課す条件を一つ一つクリアしていかなければならないのです。
つまり、信仰を持ったからといってすぐに良いことが起こったり運命が変わるわけではないのです。
しかし、サタンは人が欲しいと願ったものをすぐに与え、人々を堕落への道へと誘惑します。
先に富や物質や異性といったこの世のものを与え、この世のものを多く手に入れたものが人生の勝者(いわゆる勝ち組)といった価値観を人々に植え付け、人々にそれらを求めて生きることが人生の目的であるかのように誘導します。
このように、先にこの世のものを与えて人々の頭の中をこの世のものを求める欲で満たし、神様のことを考えさせないようにするのがサタンのやり方です。
これに対して神様は、人間としての能力、食物や材料にもなりうる動植物を育み資源となる鉱物を備えた地球という生活環境など、先に多くのものを私たち人類に与えてくださっており、人々が与えられている恵みに感謝し、どのように神様に報いるかを一人ひとりチェックされています。
そして、その人の行動が神様の条件に適えば、神様はその人に祝福を与えてくださいます。
何か物を買うには代金を支払わなければなりませんが、本物の神様と人との関係もギブアンドテイク、神様が求める条件を満たさなければ何も与えられません。
私たちが先に与えられている能力を使って神様が望まれる行動をすれば、神様は祝福を与えてくださいます。
また、自分を成長させその能力を伸ばし、より神様から喜ばれる行動をすれば、さらに大きな祝福を神様は与えてくださいます。
また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、
『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
主人は彼に言った、
『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
二タラントの者も進み出て言った、
『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
主人は彼に言った、
『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
一タラントを渡された者も進み出て言った、
『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
すると、主人は彼に答えて言った、
『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイによる福音書 25章 14~30節
このように、神様から大きな祝福を得たいと思うなら、それに見合うだけの条件を立てていかなければいけませんが、より大きな条件を立てた者には更なる祝福が与えられます。
一方、神様から与えられた才能を伸ばす努力もせず、神様のために行動することがなければ、一タラントを地中に隠しておいた僕の様に、持っているものまで神様から奪い取られてしまいます。
敗者復活のチャンスを失い、神様から放り出されてしまったら・・・
想像したくはないですが、神様の祝福を受けられない救いのない人生を送り、神様に裁かれ地獄に堕とされてしまうという最悪のシナリオが目に浮かびます。
しかし、神様を愛し神様の条件を満たしていけば、神様はこの世のものをサタンから奪ってでも与えてくださいます。
世の中のものを追い求めるのを止めて、神様が喜ぶことを祈り求めて行うことで、想像もつかない発想を思いついたり、才能を身に着けることができ、大きな祝福を得ることができます。
信仰を持って間もない頃は、戒めを守って生活することがこの世で生きるうえでつらく感じますが、自分の古い考えを捨て神様の考えに合わせて生きていくことで、そのつらさもなくなり、神様の愛を感じる喜びの方が勝っていきます。
神様の前ではガラクタでしかない自分の古い考えを捨て、価値ある神様の考えを受け入れていくことで、自分の考え方や行動が変わり、自分の人生が変化していきます。
神様と繋がる時間を増やし、テレビ・ゲーム・インターネット・猥褻物などサタンの影響下にあるものとの関りを減らしていけば、神様の愛を受けられる喜びを感じ、この世のことで悩みや心配を抱えることがなくなります。
とにかく神様の御心だけを行っていけば何事にも必ずうまくいくように、神様がこの世もあの世も創られているのですから、神様が仰る通りにやってみることです。
すべての創造主である神様が設定されたルールや法則に従って行うことが、途中で失格と判定されず、人生での成功と天国という神様が設定されたゴールへ辿り着くための秘訣です。
自分の考えを捨て神様の考えに入れ替え、神様の愛やこの世とあの世の仕組みを知れば知るほど、神様以外のものを求めること、つまり二心を持つことがどれほど無意味で害悪であるかが理解できるようになっていきます。
神様の教えを理解し、神様をより熱く愛せるようになればなるほど、二心は心の中から消え、ただ神様だけを全力で愛せるようになっていくのです。
多くの人々が神様の愛を知り、二心を捨て神様だけを全力で愛し求めるようになりますように。
あなたに神様の救いと祝福がありますように。