プライドを捨てることが人生の成功につながる

あなたはプライドを持って生きていますか?

「プライド」と聞くと人によって受け取り方が違うのではないでしょうか。

プライドが高い人に振り回されていたり迷惑を被っている人からすれば、「プライド」と聞いて良いイメージを持ってはいないでしょう。

それに対し、プライドを高く持ち人生に満足している人はプライドに対する悪いイメージはなく、プライドを持って生きることを是とし、その人の基準に達していない人を見れば、「なぜプライドを持って生きないのか?」と感じているかもしれません。

このように、人それぞれに解釈の仕方が変わってくるプライドとはいったい何なのでしょうか?

そこでまずはプライドという言葉の意味を調べてみます。

日本語の「プライド」の意味
自尊心・誇り
英語の「pride」の意味
自慢、得意、満足、自尊心、誇り、プライド、うぬぼれ、高慢、尊大、横柄、思い上がり、自慢のたね

日本語の「プライド」の意味を調べると「自尊心・誇り」と出てくるので一見立派な言葉に感じてしまいますが、英語の「pride」の意味を調べると「自慢・うぬぼれ・高慢・尊大・横柄・思い上がり」といった悪い意味の言葉が多く並べられています。

プライドが高い人は自分のプライドを「自尊心・誇り」と考えていて、そうでない人はプライドが高い人のことを「高慢で尊大な人」と考えているわけです。

「pride」が高い人を表現するとしたら、「実際以上に自分が優れている、価値があると思い込んで高ぶり、偉そうに人を見下した態度の人」といったところでしょうか。

そこでプライドが高い人の特徴を「プライド 高い」で検索し、上位表示されたサイトを見てまとめてみました。(ただ単に「プライドが高い」と一括りにして考えているため内容が矛盾する項目もあります。)

プライドが高い人の特徴

自分の考えを曲げない

固定観念が強く自分の考えこそが絶対正しいと思っている、いわゆる自己中心的な性格です。そのため、物事を客観的に見れず、他人の意見を否定したり、誰が見ても有益と思える助言を受け入れることができません。

自分の非を認めない

自分の非をなかなか認めず、常に自分を正当化しようとします。また、傷つくことを恐れ、「できない自分」や「失敗した自分」という自分の現実の姿を認めたくありません。

融通が利かない

自分の考えに固執するため融通が利かず、臨機応変な対応が苦手です。また、冗談を真に受けてしまい急にキレることもあるので、周囲の人から腫物を触るように扱われてしまいます。そのことに本人が気づいていないのはよく目にする光景です。

負けず嫌い

何かにつけて負けず嫌いで、「できません」とは決して言いいません。また、他人に自分の弱みを知られ、それを理由に見下されることを嫌います。

人に優劣をつけ相手を見下す

自分の能力や容姿に強い自信を持っており、自分より能力が劣る人や平凡な容姿の人を見下す傾向があります。また、人を内面で判断するのではなく、役職や学歴や容姿などを重視し、自分のステータスになる人と交流を持ちます。(ヒエラルキー症候群)

他人の意見を否定する・他人を批判する

高慢で謙虚さに欠け、他人から学んで自身を向上させることができません。また自分に反対する人や自分を認めない人は、「分かっていない」「頭が悪い」と見下し軽蔑します。しかし、明らかに自分より優れている相手には劣等感があるので、自分が惨めにならないように極力接触を避けようとします。

完璧主義で責任感が強い

何事にも完璧を求め、責任感が強く、仮にミスをしても言い訳をしません。その分、自分にも他人にも厳しく僅かなミスも許さないという、冷徹な部分もあります。また、他人に任せることができず、何でも自分一人の力でやり遂げようとします。このような人はあまりミスをすることがないため、もし大きなミスをしたらひどく落ち込むことがあります。

人に頭を下げることができない

人に頭を下げることができず、自分のミスや失敗を絶対に認めません。人によっては自己保身に走り、自分のミスを他人のせいにすることもあります。また、人に助けを求めることや頼みごとをすることが苦手です。そのため、事前に関係各所への根回しができず、独断で進めていたことで問題が発生し、周りの人がその尻拭いをさせられることがあります。

承認欲求が強い

自分のことを人から「評価されたい」「認められたい」という願望があるので、(自分は他人を認めず否定しておきながら)人の話を聞かず強引に自分の自慢話をします。また、認めてもらいたい欲求が強すぎることで過剰な自己アピールをしてしまい、周りから冷たい視線を浴びることもあります。

世間体ばかり気にする

他人に評価されることを重視するので、いつも外見や相手にどう思われるかということばかりを気にし、自意識過剰になっています。そのため、ありのままの自分でいることができず、理想とする自分像を作り上げ、対外的にそのキャラクターを演じます。

人の笑いものになりたくない

自分から人を笑わそうとしてギャグや面白い話をすることは厭いませんが、意図せずに自分自身が他人から笑われれることには耐えられません。

一流と呼ばれるものやブランドが好き

自身にステータスを与え、優越感に浸れる「一流」「高級」「ブランド」の物やサービスが好きです。

自分のこだわり

趣味や何か特定のジャンルに強いこだわりを持って生きており、このこだわりに自分の価値観や存在意義を見出しています。このこだわりを他人から否定されたり貶されることは、自分自身を否定されているような感じを受けます。

他にもあるかもしれませんが、内容の重複するのもであったり、限定的な条件でのものであるため大体このようなところでしょうか。

「プライドが高い」ということで極端な例もあるため、これらを全て備えている人はいないと思いますが、他人に対してこれらの特徴が行動や態度として表出すると「プライドが高い人」と敬遠されてしまいます。

しかし、ここまで極端なものではなく、これらを少しソフトにした考えなら「自尊心」として誰でも頭の中にいくつか持っているものです。

普段は表に出さなくても状況によってこれらの「自尊心=プライド」が起因となる行動をとったり、感情が湧き出てくることがあるのではないでしょうか。

そこで、今度は自尊心の意味について調べてみました。

自尊心
自分の人格を大切にする気持ち。
自分の品位を保とうとする心。
自分を優秀な者だと思う気持ち。
自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。
尊大に構える心。

これらをまとめると、自尊心とは「自分の人格を尊重し、他者の考えを押し付けられないまたは他者に従わないことで、自分を守ろうとする心」と言えるでしょうか。

「自分自身を守る心」や「他者の考えを押し付けられそれに縛られたくないという気持ち」は誰にでもあると思います。

「自尊心が高い」を言い換えれば「プライドが高い」ということに近くなりますので、次は反対に「自尊心が低い人」について考えてみます。

自尊心が低い人の特徴

自分を低く評価し他人と比較し劣等感を感じる

自分に自信を持てず、任された仕事や自分がやってみたいと思うことがあったとしても、「自分には無理」「自分にはできない」とやる前からすでに諦めています。この「どうせやっても自分は失敗する」と考える癖は自尊感情の低さからきています。

何事にも消極的

自分に自信がなく、自分から積極的に行動することができません。また、「周りからどう思われるだろうか」と他人の評価ばかりを気にしすぎて、自分の意見や希望を相手に伝えられません。そのため受け身に回ることが多く、自分の思い通りにいかないと後になってから愚痴や文句を言うことがあります。

依存心が強い

自分に自信がなく何をするにも誰かを頼ってばかりいると、自分の意志で行動できない依存体質になります。また、常に受け身で生きていると、自分の考えで行動するより自分より能力が高い人の考えに身を委ねて生きる方が安楽に思え、自分の考えを持てなくなることがあります。

嫉妬心が強い

自分に自信がなく常に劣等感を抱えているため、自分より優れている人を素直に認められません。また、「できる人」「成功している人」「幸運な人」などに対して激しく嫉妬し、他人の活躍を素直に祝福できません。嫉妬心が強くなりすぎると、相手に嫌味を言ったり妨害をするなどして相手だけでなく周囲の人にも迷惑をかけることがあります。

承認欲求が強い

自分に自信がないため、常に人から「認められたい」「褒められたい」「愛されたい」という欲求があり、常に他人の承認を得られないと安心できません。また、認められたいと思う反面、自信のなさから周囲の態度や言葉に敏感に反応し、ひとりで勝手に傷ついて落ち込むなど、周囲の反応を悲観的に捉えやすい傾向があります。

現実逃避しやすい

認められたいのに人から認めてもらえていないと感じると、よりマイナス思考で物事を考えるようになります。「自分はダメだ」と自己否定し、たとえ努力次第でそのつらい状況を変えられるとしても、変化させるためのアクションを起こせません。自分が傷つくことが恐いので、自分自身や自分が直面する状況と向き合うことができません。このように現実から目を背け、自分の欠点や悪い部分を変えることを避けていると、いつまでもその悪い状態から抜け出すことができません。

他にもあるかもしれませんが、「プライドが高い人の特徴」と同じく挙げればきりがありませんので、このあたりで止めておきます。

なぜ止めるかと申しますと、「プライドが高い人」も「自尊心が低い人」も「自尊心がある人」に変わりなく、これ以上挙げていっても特徴が重複してしまいあまり意味がないからです。

ここでもう一度、「自尊心」について考えてみたいと思います。

自尊心
自分の人格を尊重し、他者の考えを押し付けられないまたは他者に従わないことで、自分を守ろうとする心

もう少し分かりやすく言うと、「自分の性格や考えを人から変えられないように守ろうとする心」ということです。

「自分を守る心」ですので「高い・低い」で考えるのではなく、「持っている・持っていない」で考える方が妥当なのではないでしょうか。

そこで、自尊心があるということを前提にして、前述の「プライドが高い人」「自尊心が低い人」の特徴をまとめてみます。

自尊心が高い人
自尊心あり・優越感・積極的・能動的・承認欲求が強い・嫉妬心が強い・自立心が強い・自分の意見を押し通す・傷つきたくない・現実を見ない・理想が高い
自尊心が低い人
自尊心あり・劣等感・消極的・受動的・承認欲求が強い・嫉妬心が強い・依存心が強い・自分の意見を言わない・傷つきたくない・現実を見ない・理想が低い

自尊心が高い人は「自分はできる・持っている」という優越感から尊大になり、自尊心が低い人は「自分はできない・持っていない」という劣等感から卑屈になるという点が異なるだけで、人から認められたい(評価されたい・愛されたい等)という願望があり、ありのままの自分と向き合えないという根本にある性質は同じなのです。

また、自分より収入や学歴や地位が高い人には媚び諂い、自分よりそれらが劣っている人には横柄に振る舞うような人は、相手や状況によって自尊心を高めたり低めたりと変化させることで、自分の人格を守ろうとしているわけです。

このように同じ人の自尊心が高くも低くも変化するのですから、「プライドが高い」「自尊心が低い」と人の性質を画一的に一つの型に当てはめて考えようとすることに無理があるのです。

つまり、「プライドが高い・低い」ではなく、「プライドを持っている・持っていない」で分類すれば、大抵の人は「プライドを持っている」といえるのではないでしょうか。

環境や役割の違いで自尊心も変化する

男女間の違い

自然界ではオスが体力に秀で狩猟に出て食料を確保し、メスは出産し子供を守る役割があるように、人類も男性が外で働き女性が家庭を守るという、その性別が持つ特徴に合わせた役割が長年にわたり受け継がれてきました。

家族単位で集落を成して暮らしていた原始的な人々は、家の中の序列に従い採集してきた食料を分配している限りでは他者との比較や争いがないため、特にプライドを持つ必要はなかったでしょう。

それが他の集落と交流するようになり、そこから更に村から町そして都市へと発展すると、生活の中で接する人々の数が増えて格差が生じるようになり、自分と他人とを比較するようになります。

皆が同じ生活をしていた頃はそれほど比較する項目が多くはないので、プライドといっても「強い・弱い」といった単純な優劣の比較から生じる程度のものでしょう。

しかし、技術や文明が進化して人口が増え、それに伴い様々な技能を生かした多種多様な職業が生まれると、「できる人・できない人」「富める人・貧しい人」など、人々が自分と他人を比較する項目が増え、更に格差も拡大していきます。

このように様々な分野で自分と他人を比較し、優越感や劣等感を感じて生きていくことで、人々の心に自尊心が複雑に育っていくことになります。

男性は家族を養うために、外(社会)で獲物(収入)を得るために働き、その中で人より多くを得るためには他人との競争に打ち勝つ必要があり、競争に勝とうとするならば自然と自尊心が高くなっていきます。

自尊心が低く消極的で相手に譲ってばかりでは競争に勝てないからです。

一方、女性は子供を産み育児をする期間は外に出て活動することはできませんから、必然的に外で働く主人を支え家を守る立場になります。

そのため、競争よりも協調することが優先され、相手に意見し自分の考えを相手に押し付けることは控えるようになります。

現代では女性の社会進出が進み一概に論じることはできませんが、男女の生物的役割や歴史的背景から、成長過程を通して男はプライドが高い生き物、女は自尊心が低い生き物として育っていく傾向にあります。

国や文化の違い

日本には謙譲を美徳とする日本独特の伝統的な文化があり、日本人には他人に対して自分自身を低く評価し、人前で控えめに行動する習性があります。

これに対し欧米では、自分の意見や能力をはっきりアピールし表現しなければ、他人から自分を正当に評価し認めてもらうことができません。

また、「出る杭は打たれる」という諺があるように、日本では人より目立つ存在の人は憎まれたり嫉妬される対象になるので、自然と考えが消極的となり、人と横並びで満足してしまう傾向があります。

このようにその国の文化や人々の気質を考慮すると、欧米人で「プライドが高い人」と言うと「自分の能力を過大評価し、それにうぬぼれている高慢な人」とシンプルな答えが出てきそうです。

つまり、先の「プライドが高い人の特徴」に挙げられる要素を持った、皆が単純にイメージできる人物像になるわけです。

ところが、日本で「プライドが高い人」と一括りにしようとしても「プライドが高い人」と「自尊心が低い人」の特徴を兼ね備える人がいるように、日本独特の社会環境が影響し各個人の人格が形成され、その人格を守るために人それぞれの自尊心(プライド)が存在しているのです。

生まれ育つ環境の違い

人は生まれてから親をはじめとする家族の影響を受けて成長し、その人独自の人格を形成するようになります。

人格というとその人の個性や性格や思考のことであり、これも抽象的で多様化してしまい分かりにくいため、ここでは「自分らしさ」「自分像」として考えてみたいと思います。

その成長過程において、一般的に男の子は「男の子らしく」、女の子は「女の子らしく」と、それぞれに相応しい服装や玩具を与えられて育てられます。

このように育てられていく中で、男の子は「男らしさ」を女の子は「女らしさ」を人格の一部として持ち、「自分像」を形作っていくことになります。

古来からその性別に相応しくない人に対し「女々しい男性」「男勝りの女性」という言葉があるように、日本人が考える「男らしさ」「女らしさ」という普遍的な概念があります。

そのため、家庭環境によって育て方が異なっていたとしても、日本で生まれ育った人は、男性なら「日本人が考える男らしさ」、女性なら「日本人が考える女らしさ」というそれぞれの特徴を人格のベースにして成長していくことになります。

ここで新たに弟や妹が生まれ、「お兄ちゃんらしく(お姉ちゃんらしく)しなさい」と周りから言われるようになると、従来の「男らしさ・女らしさ」に「長男・長女らしさ」を加えた新しい「自分像」へと作り変えていきます。

また、弟や妹として生まれた子は、お兄ちゃんやお姉ちゃんとは異なる環境で成長を始めることになるので、当然その「自分像」も違うものとして形成されていくのです。

そして、幼稚園や保育園で先生や友達との集団生活を送る中で社会性を身に着けるとともに、自分と友達とを比べて評価をすることで、その集団での生活に適した「自分像」を形作っていきます。

今では幼児教育も多様化していますので、子供たちに優劣をつけないように配慮している園もあれば、スパルタ教育を行う園もあるなど、園の教育方針や先生や友達の言動や行動といった周囲の環境の違いで、子供たちの人格が大きく変わっていくことになります。

特に早生まれの子と遅生まれの子とでは極端な例では一年の開きがあり、この時期の一年の差は肉体的にも精神的にも非常に大きな格差を引き起こします。

このようにそれぞれの環境の中で、子供たちは自分が置かれた状況において自分と他人を比較し、自分が収まるべきポジションを見付け、自分像を変化させながらそのポジションに自分をはめ込みます。

自分を変えずに入れるポジションがあればいいのですが、役割が被る人が他にもいたり、ポジション自体がない場合もあります。

そのため幼い頃は自分と他人を比較し評価する能力や相手の気持ちを汲んだり周囲の状況を判断する能力も未発達なため、お互いの自我を主張し合い喧嘩になることがあります。

しかし、学校、塾、習い事、部活動、友人関係、職場など、それぞれの組織や集団において人々と接するなかで、自分の能力の程度を知ったり、自分の思い通りにならないことを経験していきます。

そのような経験をすることで、自己評価の能力が向上し自分と相手の力量を判断できるようになるため、自分の本心とは違うポジションを受け入れ「本来の自分とは異なる別の自分」を演じることで、無駄な争いを避けるようになります。

一方、自己評価ができる謙虚さを身に付けた友人や、わがままを許してくれる家族といったイエスマンばかりに囲まれて生活していると、その人は幼い頃から自己評価の能力を伸ばせなくなります。

そのため自分と他人の評価を適切に判定できなくなり、自己評価が高く他人を見下す尊大な人となってしまい、結果的にプライドが高い人と呼ばれることになるわけです。

このように、生きていく過程で自分を周囲の環境に適合させるため、自己評価によって自分の人格に固執または周囲から求められる人間像や役割と妥協することにより、その人独自の「自分像」が形成され、それが「自尊心=プライド」となっていきます。

また、「自己評価」もプライドや成長に関わることなので、ここで簡単に触れておきます。

自己評価とは文字通り自分自身の価値や能力を評価することであり、その判断基準として自分自身だけでなく他人の価値や能力を評価し比較することです。

このことを踏まえて、プライドと同様に論じられることが多い「自己評価が高い」「自己評価が低い」ということについて考えてみます。

自己評価が高い
自分と他人の価値や能力を的確に判断できず、自分に甘い判定をするため自分のことを過大評価してしまう
優越感、楽観的、高慢
自己評価が低い
自分と他人の価値や能力を的確に判断でき、自分に厳しい判定をするため自分のことを過小評価してしまう
劣等感、悲観的、謙虚

「高い」と「低い」の違いをはっきりと打ち出すため、低い方を「判断できる」としましたが、行き過ぎた過小評価も的確な判断とは言い難いので、できればニュートラルな視点で的確に判断することが重要です。

プライドを捨てないと成功できない

自己啓発ものや経営セミナーなどではよく、「成功者はプライドを捨て目標を目指して行動したから成功できた」ということを聞くことがあります。

同じ本を読んだりセミナーを受けた人でも、言われた通りに実践した人と、自己流のやり方をした人とでは当然違う結果になります。

いわゆる成功法則というものを知っていたとしても、自己流にアレンジしたり、自分のやりたいことだけを行ないやりたくないことは行なわないというのであれば、成功法則とは似て非なる自己流法則になってしまいます。

成功法則を素直にそのまま実践した人は、その人が求めていた結果を実際に残すことができます。

しかし、成功法則を自分に都合よく勝手にアレンジしたり、完全自己流で行なうならば、その人が求めていたものとは違う残念な結果に終わることになります。

「人生で成功する」とか「成功者」というと、大金持ちや大きな事業を立ち上げる実業家を想像してしまい、自分とは無関係のことと思いがちですが、自分の性格や行動を変え、理想の人生を生きていくという個人的な成功も含まれます。

自分を変えたいと思い、自己啓発本やハウツー本を読んでその内容に共感しながら、その通りに実践しなかった人も同じなのです。

「変わりたい自分」を「変わりたくない自分」が強力に邪魔をするため、変わりたいのに変われない。

つまり、プライドがあるから、うまくいくと実証されている方法や他人からのアドバイスを素直に受け入れられず、自分の考えや価値観を土台に行なってしまうのです。

「高い・低い」の関係なく、プライドがあるから自分の考えが絶対的なものであり、その考えを変えたくない自分が存在するのです。

ここで「プライド」という言葉を使っているので、プライドが高くて高慢な人だけの問題に感じてしまいますが、一見控えめで高慢とは程遠い自尊心が低い人にもこのことは当てはまります。

ここでもう一度「自尊心」について復習しておきます。

自尊心
自分の人格を尊重し、他者の考えを押し付けられないまたは他者に従わないことで、自分を守ろうとする心

例えば、こういう自分になりたいという理想像があり、その夢を実現するための方法を教えてくれる人に素直に従える人は、教える人に対して生徒として自分のポジションを低くすることでプライドを捨てているわけです。

しかし、教えてくれる人の言うことを聞かず、自分の考えで行うということは、教えてくれる人を見下し自分の考えの方が正しいと高慢になっているのです。

自分がこうなりたいと思うことは自由意志なので、自分がその夢を諦めたり、教える人が間違っていると思えば、また別の方法を探せばいいだけです。

このパターンは先ほどの自己啓発・ハウツー本、趣味の習い事などが当てはまるでしょうか。

もしも、これが自分の自由意志ではなくより強制力が強いもの、例えば業務命令や法律・規則となれば、やりたくないからやらないという考えは通用せず義務としてやらなければなりません。

社内の異動や転職などで新しい仕事を覚える場合、例え相手の方が若くてもその仕事をマスターしている人から教わらなければなりません。

極端な例として栄転で今までのキャリアとは異なる部門を任された場合、その部署の仕事を把握するためにはいくら上司でも職務内容を熟知している部下(現代では派遣社員やアルバイトの人の場合もあります)から教わらなければなりません。

ここでプライドが邪魔をして素直に教えを乞うことができなければ、その人は職責を果たせなくなります。

しかし、そんな自分勝手な行動をしていると職を失う恐れがるので、自分の考え(プライド)よりも責任を優先し例えそれが自分のやりたくないことでも受け入れてやるのです。

このように自分の気持ち次第でその結果が変わってくるのです。

よく「裸一貫から身を起こし」とか「人生のどん底状態から這い上がり」という苦境を乗り越え、成功者となった人の立志伝を聞くことがあります。

そのような過酷な状況の場合、その人にはいくつも選択肢が用意されていることはなく、自分の置かれた環境下でできる限られたことをやる以外に生きる術はありません。

そこで自分のプライドを捨てられず人の目を気にして何もしないでいたら、ますます状況が悪くなっていきます。

絶望的な状況に陥ることで人は自尊心を傷つけられ、自分のことを惨めで情けなく感じ、高ぶっていた自分がいかにちっぽけな存在だったのかということに気付き、人生で何の役にも立たなかったプライドを手放す決心をします。

このようにプライドを捨てることで他人の目が気にならなくなり、なりふり構わず自分がやるべきことに全力を尽くすことができるため、他人ができないことも成し遂げることができるのです。

しかし、安定した収入源があったり、他に楽に生きていける方法があれば、人は楽な方に流されやすい生き物なので、よほど強い意志や精神力がなければ、そこそこのところで満足してしまい、最後まで必死な努力を続けることは難しいものです。

現代の日本では、たとえ貧しくても普通に働き身の丈に合った生活をしている分には何とか生きていけるため、「生きるか死ぬか」どころか「食うや食わず」という状況には、余程のことがない限りありません。

自分の収入に合わせて消費をすれば、少ない中でも上手くやりくりできるものです。

しかし、働いて収入があるのに「お金がない」と苦しむのは、自尊心を満たすためや見栄を張るために必要以上に浪費したり、自身の収入に見合わない高価なものを手に入れるために借金までしてしまうためです。

また、自尊心が低い人の場合は「他人と同じ方が安心できる」「他人からどう思われるかが気になる」という心理が働き、食事の時にみんなと同じものを注文したり、流行りものを手に入れたりと、必ずしも自分が欲しいとは思っていないものに消費してしまうこともあるでしょう。

このような状態では、たとえ本人は苦しく感じていてもプライドを持てるだけの余裕があります。

「食うや食わず」という状況ならまだ食べられているだけ、「生きるか死ぬか」というところまで追い込まれていないので、プライドを持って見栄を張る余裕があるのです。

プライドを捨てられず、まだ人の目を気にしている余裕があると、なりふり構わず何とかしてその状態を変えようという気持ちになれず、変えていくための行動を起こしにくく、行動しても最後まで努力を続ける気持ちがぶれたり弱くなりがちです。

「自分が優れている・足りている」現状に満足している気持ちや、「自分が劣っている・不足している」現状に甘んじる気持ちが僅かでもあると、自分を変えて成長することや人生を成功させるために必要な強い意思を持てなくなるのです。

自己啓発やハウツーもの、または成功譚に触発され、自分の性格や考え方といった人格や人生を変えようとしていざ実践してみても思うような結果が得られないのは、真剣に求めていないためプライドを捨てきれず、人目を気にしたり、自己流に解釈してしまい、成功法則を素直に実践できないからです。

つまり、自分がそのことを求める「必死さ」「真剣さ」「本気さ」という気構え一つで、プライドを捨て素直に実践するか、プライドにしがみつき自己流に行うかという差が生まれます。

必死になって求めてこそ自分の目標に向かって最後まで努力を続けることができ、自分が望む未来を手に入れることができるのです。

必死に神様に祈り求めれば神様が与えてくださる

この「必死に求める」ということは自己啓発などで「願いは叶う」とか「強く思ったことは実現する」などと用いられますが、これは元々聖書から引用された言葉です。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

マタイによる福音書 7章 7~8節

日本だと宗教を毛嫌いする人が多いのですが(以前の私がそうです)、人間を創られた神様が人間が最終的に幸福になれる生き方の教えをまとめたものが聖書です。

しかし、世の中にある自己啓発や成功法則といったものは、悪魔崇拝者たちが聖書の教えを基に「ニューソート」という思想をつくり出し、その思想から派生し発展していったものです。

その聖書の御言葉を使っている自己啓発や成功法則ですが、聖書の教えの中でも最重要といえる「第一に神様を全力で愛しなさい」という内容が抜け落ち、神様が禁じられている物質や富や名誉や異性を手に入れることが第一目的とされています。

宗教のことが嫌いでキリスト教について知らなければ、なぜ神様が物質や富や異性(この世のもの)を求めることを禁じられているのか理解できないので(無信仰だった頃の私です)、少し説明させていただきます。

「この世」という言葉を使いましたが、この世があればあの世もあります。

この世とは私たち人間が生きている肉体や物質の世界のことです。

あの世とは霊体の世界のことで、そこは神様がおられる天国と悪魔がいる地獄に分かれており、私たち人間が肉体の寿命が尽きた後、霊体となって永遠に生きる世界でもあります。

また、私たち人間も肉体が寿命を迎えてから霊になるのではなく、この世で生きている時に霊・肉・魂の三要素で成り立っています。

そして、この世で肉体が死を迎えた後は私たちの霊体があの世(霊界)に行くわけですが、その人がこの世でどのように生きたかを神様が判定し、天国に行く人もいれば、地獄に堕とされてしまう人もいます。

神様の基準での善人と悪人(罪人)が分けられるため、人間基準の考えでいくら善良に生きたとしても、神様の基準を満たしていなければ罪人と判断されてしまいますので、信仰によって神様の教えを知り、神様が望む生き方をすることが、神様が考えておられる人間の人生としての成功を手に入れることができます。

しかし、世の中の自己啓発やスピリチュアルものではこの世での物質的な成功だけを説き、霊界を含めたトータルでの人生での成功を説いていないため、それらの成功法則を実践しこの世的に成功したとしても、神様の基準を満たすことはできず、寧ろ積極的に神様に逆らうことを行うため、真の人生の成功を手にすることはできません。

何故このようなことなっているかというと、霊界には神様だけではなく、悪魔も存在しているからです。

悪魔は元々天使として神様に仕えていましたが、神様が人間を創り人間を愛するようになったことに嫉妬し神様に反逆したため、天国から追放され地獄に堕とされてしまいました。

そのため、神様を恨み人間を憎んでおり、神様と人間が愛し合えないようにすること、人間が神様に逆らい悪魔と同じ地獄に堕とされることを目的としてこの世で活動しています。

このように悪魔がこの世で活動しているため、自己啓発や成功法則もこの世での成功を求める内容になります。

また、テレビなどのマスメディアを利用し、物質や富や名誉や異性を手に入れることが人生での成功であるかのように、嘘の情報で人々を騙し、人々が神様に逆らってこの世のものを求めて生きるように仕向けてきます。

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。

創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。

すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。

すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。

彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

ローマ人への手紙 1章 18~32節

無信仰の頃の私はこのような宗教的な話を聞いてもかえって胡散臭く感じ、カルト宗教に騙されないようにと心を閉ざし、全く聞く耳を持ちませんでした。

しかし、神様と悪魔の存在を知り、聖書や御言葉で神様の教えを知ることで信仰を持つようになりました。

ここまで考え方が変わったのも、神様を知らずに自分勝手に生きて地獄に堕とされることに危機感を感じ、自分が持っていたプライドや固定観念を捨てることができたからです。

それでも、プライドや固定観念を完全に捨て切るということは難しく、日々の祈りでそれらがなくなるように神様に祈り求めなければなりません。

プライドや固定観念は年輪の様なもので、子供の様に素直で従順な自分の周りに年々重ねられ、年を取るほど太くなっていき、中心部にある素直な自分を覆い隠してしまいます。

この年輪の成長は、自尊心と自己評価が作り出す現実の自分と見せかけの自分のギャップであり、この差が年単位での成長の幅(厚み)の差として影響します。

そのため、自己評価が低く現実の自分を見せかけの自分のギャップが少なく若くて年輪を重ねていない人ほど素直な自分に到達しなりやすくなります。

言い換えれば、プライドを捨てやすいということです。

一方、自己評価が高く現実の自分と見せかけの自分のギャップが大きく年齢を重ねた人は、プライドや固定観念が太く成長し大木の様になっているため、なかなか素直な自分が姿を現すことができません。

年を取るほど固定観念が邪魔をし、プライドを捨てることが難しくなるのです。

実際の木なら機械を使って簡単に中心部を切り出すことができますが、人間の考えではそのようなことはできません。

鉋で薄皮を一枚ずつ剥いでいくようにしか、中心部にある素直な自分に近付いていくことができません。

たとえ自分では「捨てた」と思っていても、脳の奥底に根深く残り、何度でも復活してくるのがこのプライドであり固定観念だからです。

そのため、完全にこれらの考えを全て無くしてしまうためには自分一人で頑張るのではなく、神様に祈り求め神様の御力に頼る以外にありません。

ちなみに、独力で何とかしようとすることは、自分の能力を過大評価し、全知全能の神様の御力を過小評価し神様のことを見下していることになり、そこにプライドが存在しています。

神様のことを見下し神様に祈り求めていないわけですから、神様が何かを与えてくださったり、助けてくださることもありません。

このようなわけで神様は人間に対し、プライドや固定観念を捨てただひたすら神様に祈り求めなさいと仰るのです。

これが神様が人類に与えられた唯一の成功法則であるからです。

これに反し、神様から見てちっぽけな人間自身の力に頼ることは、その力に見合う程度のちっぽけな成功しか納められないことであり、神様の教えに従わないということは、天国に入れる神様の基準を満たすことができないということを意味するのです。

つまり、人間は神様によって創られたのですから、創造主である神様を無視して自分一人の力で何かを成し遂げるということは不可能なのです。

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、

「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。

すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。

この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

マタイによる福音書 18章 1~5節

子供はプライドや固定観念で縛られることがなく、素直に良い教えを受け入れ、言われた通りに従順に行動することができます。

自分のプライドや固定観念を捨て、子供の様に神様を信じ神様の教えに素直に従い、純粋に神様を愛する人に神様は祝福を与えてくださいます。

神様は人々が神様の存在に気付き、罪を悔い改め、持っている固定観念を捨て去り、子供の様に素直な心で神様の教えに従い、子供の様に純真な心で神様を愛することを待ち望んでおられるのです。

一人でも多くの人が神様を知り、神様と愛し合うことができますことを心からお祈りいたします。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。