自分本位の信仰生活

RAPTブログによって神様の存在を知り、神様を信じるようになった私は、信仰の手始めとして聖書を読み始めました。

聖書を知らず神様を信じていなかった私にとって、聖書に書かれている内容は何もかもが新鮮で、衝撃的なものでした。

しかも、これらが2000年も前、日本の縄文時代・弥生時代に書かれたものだと思うと、驚きと感動で時が経つのを忘れ、無我夢中で読み進めました。

しかし、一般的な書物と同じ感覚で知識を頭に詰め込むように聖書を読んでいたため、悟りを得ることなどできず、比喩的な表現の大部分は全く意味が理解できませんでした。

そのため、新約 ⇒ 旧約 ⇒ 新約 ⇒ 旧約と、2回ほど読んだところで自己満足してしまい、以後は思い出した時に聖書を読む程度になっていました。

そう、まだ聖書の読み方を知らなかったのです。

また、陰謀論系記事の合間に時折アップされる祈りや信仰に関する記事を読んだ後は、悪魔崇拝やこの世に蔓延る悪の滅亡を祈ったりもしました。

しかし、それも長くは続かず、次第に自分が抱く欲望を神様に祈るようになっていきます。

まるで、神社に行って、お賽銭を投げ、自分の願いをお願いするように。

今になって思えば、サタンが作り出したこの世の価値観に私の思考が支配され、「聖書に書かれている内容は厳しすぎて自分にできるわけがない」という固定観念が潜在意識にあったからかもしれません。

神様の存在を頭では理解しているつもりでも、心から神様を信じることができていない。

そのため、聖書に書かれている内容を実践してみることもしない。

目の前にあるものに心惹かれ、永遠に朽ち果てることがないものを心から求めていない。

当時の私は、神様を愛すること、悔い改め、祈りなど、信仰の本質を理解していませんでした。

このような形式的で自分本位なお世辞にも信仰生活とは呼べない期間が、聖書を読み始めてから2年間も続くことになるのです。

その間にRAPTブログでは2015年8月から有料記事が始まりました。

信仰に関する内容は有料記事、それ以外の陰謀論系の記事などが一般記事となり、RAPTブログを読んで神様を信じ、信仰を持つようになった兄弟姉妹は当然有料記事の購読を始めます。

しかし、当時の私は今思うと滑稽に見えるほど有料記事を読むことを拒み続けました。

私の心がサタンに似て腐り切っていたのでしょう。

また、RAPTブログを早くから知りながらもまともな信仰生活を送らず自己中心的な生活を続けていた高慢さに対する罰として、神様が私の心を頑なにさせていたのかもしれません。

このように、悟りを得ることもなく、聖霊を受ける喜びもない生活を続ける状態が有料記事が開始されてから1年以上も続きました。

いつしか読まなくなっていた聖書を約半年ぶりに読み始めた私は、今まで避けていた有料記事を開きコメント欄に目を通しました。

それは「RAPT有料記事107(2016年10月1日)神と富とに仕えることはできない。」というタイトルの記事でした。

最初はコメント欄を読んだだけですが、兄弟姉妹のコメントの質から有料記事の内容が自分が考えていた以上に遥かに次元が高いものだと気づかされました。

それと同時に、これまで頑なに有料記事を拒み続けた自分の愚かさを。

このタイミングで有料記事に触れさせたのも神様の働きでしょう。(2016年10月は、有料記事の内容が更に次元が高いものになっていく転換期でもありました。)

自分の無知蒙昧、高慢、自己中心、損得勘定など、できれば奥に隠して触れたくない悪なる部分。

まじめに信仰生活を続けてきた兄弟姉妹と自分の現状を直視し、神様の祝福も受けられず成長もない自分のみじめさ、ひとり取り残された危機感。

様々な思いが一瞬にして頭の中を駆け巡り、「今のままではこの世での祝福も与えないし、天国にも入れてやらないぞ!」と神様から最後通告を受けた気がしました。

これを機に私は有料記事を読むようになり、ようやく信仰生活を周回遅れの地点からスタートさせることになりました。

あなたに神様の救いと祝福がありますように。